思い出はエッセイのなかに

 趣味でエッセイを25年ほど書き続けている。その中に一番多く登場した人物は、自分を除いたら、母であろう。家族の記録をエッセイに残しておきたいという思いがあり、もともと家族の出番は多いが、そのなかでも母はいろいろと話題を提供してくれた。読み返すと、その時々の姿が浮かび上がってくる。
 70歳になる頃は元気だった。 父はすでに亡くなっていて、母はいろいろなことにチャレンジしていた。 『母の英語レッスン』というエッセイでは、一念発起してラジオ講座で英語の勉強をしているようすを書いている。戦争のために英語教育を受けられず、 ABCから覚える状態で、 毎年4月に「基礎英語講座」を聞き始めても、1ヵ月で内容に付いていかれなくなる。6年目にしてやっと、6月まで続けられた。一念発起の理由は、アメリカで暮らす妹が現地の人と結婚したことだ。「アメリカ人の息子と話したい。もうすぐ古稀を迎える母の夢は大きい」と、エッセイの最後を結び、エールを送っている。
 70代後半になって大病をしたせいか、「こんなおばあさんになっちゃって……」と言い出し、気弱な面を見せるようになる。30年の差がある私にはその気持ちがまだわからない。その年齢になってはじめて実感できるのだろうかと、『母の後ろ姿』で書いている。
『母の基準』では、家の片付けに取り組むようすを書いた。子どものあらゆるモノを保管している。私自身も親として子どものモノはなかなか捨てられないと共感しつつも、取捨選択の基準を考えなおすべきではないかとも思う。母親は反面教師でもある。
 80代になると、娘を頼る場面が多くなる。『母から娘へ』では、母から電話がかかってくると、1時間は覚悟しなくてはならないと書いている。毎回のつぶやきや愚痴に対してどう相槌を打てばいいのか。そうね、そうねとただ受け入れるのに疲れて、話題を転換する打開策を練るエッセイ『受け答え』も書いた。
 母についてのエッセイは、他にもたくさんある。米寿のときに、半生を書いてもらい、自分史として冊子に仕上げたこと。私が子ども時代に覚えている内容と母の記憶が違うことの驚きも書き留めた。足が弱くなって、一緒に家の周りを散歩し、梅の花を見上げた思い出もある。私の目を通して見た母の人生の一部だけだが、読み返すと懐かしい。
 93歳前後の日々を綴るエッセイには、『うれしい誤算』というタイトルを考えた。90を過ぎて、体力も食欲もだんだん衰えてきていたが、2022年2月後半に体調が一気に悪くなった。うとうとする時間が長くなり、食欲もまったくなくなって、即入院となった。腎機能も落ちていて、このままだと1ヵ月くらいだろうと医師に言われた。姉と相談し、コロナ下で面会ができないので自宅で看たいと、退院を希望した。状態が少し落ち着くまで2週間半ほど入院している間に、電動リクライニングベッドを用意し、訪問診療も訪問看護も手配した。
 アメリカに住む妹は、仕事の忙しい時期だったが1週間の休みをとって戻ってきた。姉と同居する母のもとへ、私も毎日通った。寝たきりの介護は想像以上に大変なことだった。はじめてということもあるが、40キロもない体なのに、動かすには相当の力が必要だった。下の世話も、不定期にやってくる。
 それでも、少しずつ口に入るものが増え、「おいしいわねえ」と幸せそうに微笑むのを見ると、こちらも幸せになる。目が覚めている間のおしゃべりは、だんだん長くなった。ベッドのそばに置いたポータブルトイレに、ほんの少しの介助で移れるようになる。孫たちが会いに来ると、「お小遣いをあげてちょうだい」と、しっかりした声で言う。ベッドから離れ、車いすで居間まで移動して食事をする。退院して1週間で、見違えるように回復した。このままいけば、何ヵ月、いや年単位で元気でいられるかもしれないと期待するようになった。余命1ヵ月は、うれしい誤算となり、妹は安心してアメリカに戻った。
 しかし、回復とはいっても、常に誰かがそばで見守る程度の回復だ。一人ですたすた歩けるようにはならないだろう。私も姉も、1ヵ月ならとすべてを放って専念していたが、これが何ヵ月も続いたら……。
 そんな心配すら持ち上がり出した、退院して2週間目の朝のこと。母の持病が再発した。そうなったら死に至ると医師に言われていた、そのとおりになった。
 回復したら書こうと考えていたエッセイ『うれしい誤算』は、構想だけで終わってしまった。