エッセイコンテストでの評価

エッセイ仲間のZさんから、あるエッセイコンテストで最終の5作に残ったと連絡がありました。そのコンテストの最終選考は、一般の投票と審査員の投票の合計点で決定するそうです。コンテストのウェブサイトに掲載されている5作を読んでみました。

コンテストのテーマは「栗にまつわるエッセイ」です。
Zさんのエッセイはこういう内容でした。
「子供の頃、自宅の裏の畑には栗の木があった。栗拾いは母の出番、私はその栗をバケツに入れ、父親が家に運ぶ。小学校低学年の頃、例年になくたくさん収穫した年があって、父親は青果市場に栗を売りに行った。父親と出かけるのがうれしくて、私もくっついていった。後日、父親が売上を通帳に入れて、手伝ってくれてありがとうの手紙と共に手渡してくれた」

テーマにぴったりの内容で、栗拾いの情景描写も目に見えるように綴られていました。そして、両親の愛情いっぱいに育てられた筆者は、その愛情を今も宝物のようにだいじにしていて、素直に描かれています。両親のセリフにはその地方ならではの言い回しがあって、それもまた、温かな家族の雰囲気を醸し出します。
その他の4作品もそれぞれに心温まるエッセイでしたが、私にはZさんの作品がベストと思われ、1票を投じました。Zさんがきっとエッセイ部門賞をとると信じて疑いませんでした。

1ヵ月ほど経過して、最終結果が発表され、Zさんではない方がエッセイ部門賞に選ばれました。どうして、Zさんの作品ではなかったのか。考えてみると、2つのことが思い当たりました。
〇コンテストでは主催者の意向に沿ったものが選ばれる
〇私がZさんのことを知っているから

〇コンテストでは主催者の意向に沿ったものが選ばれる
コンテストを催す理由はいろいろあります。主催者(企業、団体、地方自治体など)の認知度をあげるため、イメージアップのため、宣伝のためなど。ですから、選考の際には、作品としての完成度より、主催者側の意向に沿ったものが選ばれることがあると考えられます。また、同じ作品を読んでも、読み手によって受け止め方が分かれます。最終選考に残ったものはどれもそれぞれにいい作品でしたから、あとは審査員の感じ方や好みによって、どれが選ばれても不思議ではありません。

〇私がZさんのことを知っているから
Zさんはエッセイ仲間ですので、他の作品も読んでいますし、人間としてもよく知っています。そのため、作品に書かれていること以外の背景や情報を想像しながら読んでしまいます。作品だけを客観的に比較しようとしても、他の作品より共感を覚えてしまうのは、ある意味仕方のないことなのです。
これは著名人のエッセイを読むときにも起こる現象です。著名人のエッセイについては、本人についての情報をすでに映像・メディア・SNSなど得ている場合があります。ですから、知らない誰かさんのエッセイよりもおもしろく感じるのです。もちろん、それだけが理由ではありませんが。

Zさんは部門賞には至りませんでしたが、仲間として楽しい夢を見させてもらいました。以前の今月の話題の記事「エッセイコンテストに応募しよう」でも、コンテストに入賞する近道も秘策もありませんと書きました。
自分に力がなかったから落選した、ということではありません。縁がなかっただけ。コンテストは水物という側面もあります。作品はしっかり書き込み、推敲も重ねて、完成度をあげたいものですが、結果に対しては過度の期待はもたずに投稿したらどうでしょうか。
でも、入選したら、これは私の実力と胸を張ってください!