菜摘ちゃん

 もうずいぶん前の話。

 転勤先のアメリカで2人目の子を妊娠した。6ヵ月の検診のとき、心音の検査をしたナースが言った。
「きっと女の子よ」
 女の子の心音はちょっと速いからわかるの、とウィンクをしながら。まさかあ。それだけで男か女かわかるはずはない。私はあいまいな笑みを返した。

 しかし、それ以降、毎月、心音チェックの後には、「女の子よ」のひと言が加わるようになった。特に異常がない限り、超音波検査はしてもらえないから、たしかめようはない。
 1人目が男の子だったせいもあるだろう。女の子という言葉に、心はつい傾く。いつの間にか女の子の名前を考えていた。
 ―なっちゃん―
 心の中でフッと湧き出たその響きが、だんだん大きくなっていった。ナツコ、ナミ、ナツミ……なつみ。気持ちが固まったときには、もう漢字も決まっていた。菜摘ちゃん。

 住んでいたのはミシガン州。五大湖に近く、冬は長く厳しい。真っ青に晴れ渡っている日ほど、空気はピリッと冷たい。外の明るさにつられて家を出ると、思いもかけない寒さが襲ってきて、裏切られたような気分になる。東京しか知らない私には、この冬は衝撃的だった。そして、やっと春が来る。やわらかな陽射しが根雪をとかし、木々は淡い緑色の葉で覆われる。抑え込まれたエネルギーがはじけ出るように、あちこちで花が咲き始める。このミシガンで3月に生まれる子の名前に、春の喜びを残しておきたかった。

 ところが、あろうことか、いや「やはり」というべきか、生まれてきたのは男の子。
「Oh、boy!(なんてことだ)」
 自分のジョークに満足している夫を横目に、私は焦っていた。どうしよう。名前を考えなくては。

 3月3日に生まれた春樹は、今年28歳。ずいぶん昔の話です。