無意識下の差別

 2021年2月初旬、私は悩んでいた。オリンピックのボランティアを辞退しようか、どうしようかと。

 発端は、2月3日の森喜朗氏の日本オリンピック委員会臨時評議員会でのスピーチだ。「女性がたくさん入っている会議は長くなる」「組織委員会の女性は、みなさん、わきまえておられて」などの発言を、マスコミは女性蔑視と大きく報じた。翌日、森氏は謝罪会見を行ったが、質問を重ねる記者に対していらだちを見せる場面もあった。
 言葉の上では謝罪したが、自分は蔑視したつもりはないと思っているように受け取れた。おそらく、無意識なのだ。無意識のうちに女性を下に見ているのだ。そしてそれに気づいていない。40年前に私が勤めていた頃と、男性側の意識があまり変化していないことに、私はがっかりした。
 当時、会社の上司は「25歳までに結婚したほうがいいよ」と、25日を過ぎたら売れなくなるクリスマスケーキを例にとって教えてくれた。別に悪気があったわけではなく、結婚できなくなったらかわいそうと、女性を下に見て心配してくれたのだ。言われる私も、そういう世の中を受け入れていた。それから年月がたち、「すべての女性が輝く社会づくり」を掲げる首相も登場したが、まだまだ男性の無意識下の女性蔑視は続いている。

 今回の発言が大きく取り上げられた理由はもう1つある。森氏が東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長であることだ。男女平等を掲げるオリンピック憲章に反すると、世界のメディアも批判した。
 私はボランティアに応募し、これまで2回の研修を受けた。そこで教わったことを思い返すと、森氏の発言には強い憤りを感じる。
 研修では、「ダイバーシティ(多様性)とインクルージョン(調和)」という言葉が多く出てきた。世の中には、いろいろな人がいる。年齢、人種や国籍、心身機能、性別、性的指向、性自認、宗教・信条や価値観その他、それぞれ違う。その多様な人たちが互いを理解し、尊重し合うことによって、1人1人が力を発揮できる。そういう大会を一緒に作り上げていきましょう。その呼びかけが耳に残っている。
 多様性を理解するための「障害平等研修」も行われた。「障害」とは何か。教材の絵やビデオを見て、社会のどこに障害があるかを考え、隣席の人と話し合う。正解は与えられず、自分たちで回答を導き出す。そして、障害は多数派の人が作り出していたと気づかされる。私も無意識のうちに、障害のある人を差別していたかもしれない。男女間の平等も同じだ。力のある側が差別を作り出しているのだとわかる。
 このように、ダイバーシティとインクルージョンの意識啓発に研修の多くの時間をさくオリンピックの、その長たる人間、すなわち森氏の発言が、これでいいのか。そういうトップがいるなかで、ボランティアをする意味があるのか。
 研修を受けたボランティアたちの多くはそう考えたと思う。そして、「辞退」という形で行動を起こす人たちが出てきた。そこへきて、自民党の二階俊博幹事長がこう述べた。
「関係者の皆さんは瞬間的に協力できないとおっしゃったんだと思うが、落ち着いて静かになったら、考えも変わるだろう。どうしてもやめたいならまた新たなボランティアを募集せざるをえない」
 辞退者はさらに加速して増えた。ボランティアの気持ちをわかっていない。この一連の流れを容認したくない。私も今ここで動かなくてどうする? 辞退しよう、いやどうしようか。行ったり来たりで、考えがまとまらない。
 頭が燃えるような怒りを感じるが、オリンピックそのものに罪はないとも思うのだ。1964年の大会のときは幼稚園児で記憶がおぼろげだ。私が心身共に元気な時期に再び東京で行われるなら何かに関わりたいと思って、ボランティアに応募した。心から楽しみにしていた。新型コロナウイルスで1年延期され、環境はまだ整っていないが、それでも私は心待ちにしている。そのことを重視しよう。何日か考え続けて、辞退しないと決めた。

 森氏は発言の1週間後に辞任、橋本聖子氏が新たな会長となった。感染が収まらないなか、どのように開催されるのか。たとえ開催されなくても、ダイバーシティとインクルージョンの理念は東京2020のレガシーとして残ってほしい。そう願っている。

*「なまもの」(今起きている時事的な問題)をエッセイにすることにチャレンジした作品です。今月の話題「なまものを渦中に書く」も併せてお読みください。