くろよんダム

 10月中旬に、姉と妹と3人で旅行した。黒部ダムを見て、立山の室堂という所で2泊し、紅葉を楽しむ予定だったが、最初の2日間は天気に恵まれなかった。
 長野県側でバスに乗ったときから、厚い雲が垂れ込め、今にも降り出しそうだった。トンネルを抜けて「黒部ダム」駅に着き、展望台への階段220段をハアハア上って見降ろした先は、霧に覆われて真っ白。がっかりしながらも眺めていると、霧は少しずつ動いていて、うっすらと視界が開けてきた。
「くろよんダムだ!」「昔と同じ!」
 アーチ状に弧を描いたダムが、ベールを少しずつはがすように姿を表す。子どもの頃に見た、そのままの姿が見えてきた。
 展望台から外の階段に出て、1段1段、手すりを頼りに下りていく。小雨が時折ぱらつくが、霧はさらに晴れていき、ダムの高い壁から水が勢いよく噴き出すのが見えてきた。これは発電とは関係なく、観光用の放水だそうで、水しぶきを上げながら深い谷に落ちていくようすは、たしかに絵になる。壁の反対側には、水の満ち満ちた湖が広がり、違う景色を見せている。階段を下りるにつれ、見え方が変わり、そのたびに「みんなで自撮りしよう」「このアングルもいい感じ」などと、何度も写真を撮る。
 ダムの上の道を歩きながら、はるか下を流れる川を覗き込みながら、おしゃべりも続く。
「思い出のくろよんダムに来たね」
 3年前に母を看取り、自分たちが元気なうちに3人でいろいろ旅行しようと決めた。その1回目に選んだのが、59年前に家族旅行で訪れたこの場所だ。ダムが完成して5年後、長野県にある父の実家から、夏休みに足を伸ばしたのだった。幼稚園児だった妹はあまり覚えていないようだが、小学生だった姉と私は記憶にしっかり残っている。
「今は、黒部ダムって呼ぶみたい。私たちが来たときは、くろよんって言ってたよね」
 黒部第四発電所を作るためのダム、という意味の「黒四」だったそうだ。
 休憩スペースの先には、工事で犠牲になった人たちの慰霊碑がある。
「これを見たときのことは、今でもよく覚えている」
「ほんと、大勢の人が亡くなったと知って、小さいながらにショックだった」
 ツルハシやスコップを持ち黙々と働く男たちの彫像、そしてプレートには犠牲者171名の名前が刻まれている。
 大人になってから、テレビの特集で多くのことを学んだ。昭和30年代、高い山々に囲まれた奥地にダムを作るため、足場もないような所を人や馬が物資を運んだ。運搬用の道を確保しようとトンネルを掘ることにしたが、破砕帯という大量の水を含んだ地層を80メートル掘り進むのに7ヵ月も要した。その過酷さが犠牲者の数に表れている。両側には急峻な山がそそり立ち、当時の困難がうかがえる。
 ダムを十分に堪能し、その後は、ケーブルカー、ロープウェイ、電気バスを乗り継いで1000メートル登り、立山の中腹、室堂という所のホテルに向かった。途中はまたもや霧と雨で、紅葉がおそらく真っ盛りのはずなのに、何も見えなかった。
 山の天気は変わりやすい。夜になるとすっきりと晴れ渡り、まさに満天の星が広がった。ホテル主催の「星を見る会」に参加し、夏の大三角や秋の四辺形、そして天の川を教えてもらった。
 部屋に戻り、妹が荷物の中から、姉の旅行記を取り出した。家族旅行で来たときに、姉が夏休みの自由研究として作成したものだ。母がずっと残しておいたので、今回の旅行で読んでみようと、持ってきてあった。妹が読み始める。
「こう鉄のらせん状階段をのぼって大展望台へ行った。そこからのながめは、ことばではいいあらわせないほど、美しいものだった。観光の中心のダムサイト、そしてダム、そのまわりにゆうぜんとそびえたつ山々、まだ工事中のがけ。私は目をみはった。水門の上の道路を歩いた。上からのぞいたダムはこわいようだったけれど、まんまんと水をたたえた水面をみると、こわさもふっとんでしまう。うっとりしてしまうのだ」
 先ほど見てきた景色が浮かび上がるような描写で、これが小学6年の文章?と驚くほどだ。私のエッセイの影が薄くなるので、引用はここまで。
 2日目もまた天気が悪く、雨具を着こんで室堂周辺を歩いただけで、あとはホテルでおしゃべりとなる。妹は若い頃からアメリカに住んでいるため、こうした3人揃ってのおしゃべりもまた貴重な時間だ。
 3日目にやっと晴れた。富山湾の方向から上る朝日を拝み、みくりが池にくっきりと映る紅葉を愛で、そびえる立山に別れを告げて、再び電気バス、ロープウェイ、ケーブルカーの順に、1000メートル降りる。360度、どこを見回しても紅葉だった。
 長野県側に出るバスに乗るために、再びダムのアーチ状の道を歩く。秋の高い青空が、湖に鏡のように映っていた。