私の白鳥さん

 知人に勧められて、『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』という本を読んだ。
 筆者川内有緒さんと、もう1人の女性が、盲目の男性白鳥さんと一緒に美術展を見にいく。展示されているアートについて、白鳥さんに言葉で説明しながら、3人で鑑賞する。白鳥さんは人によって説明が違うとおもしろがり、美術館のざわめきも含めてアート全体を楽しむ。2人の女性は、言葉で伝えるために時間をかけて細かく観察してみて、1つの作品とこれほどじっくり向き合ったことがないと気づく。
 筆者はこの美術鑑賞をとおして、障害者を取り巻く社会についていろいろ考え、自分の生き方を振り返る。「多様な人が生きているこの社会について、読者のあなたも考えてみて」。筆者がそう語りかけているような気がした。
 読みながら、私は知人の盲目の女性のことを常に考えていた。その知人がいるから、この本に興味をもったとも言える。
 毎月1回、鍼の施術を頼んでいる彼女とは、もう10年近くの付き合いになる。くせっ毛の長い髪の毛をいつも1つに結わえている、40代の明るい女性。きょうだい4人のうち自分だけが生まれつき目が見えなかったそうだ。
 小1時間の施術中、おしゃべりから学ぶことは多い。遠慮なく聞ける間柄になったと思っているが、知らないうちに失礼な発言をしているかもしれない。
 まず驚いたのは、そして今も感心するのは、iPhoneを持っていることだ。「点字を指でたどって字を読む」という私の勝手な認識に反して、表面がつるつるしているスマホを使っているのだ。誰もが利用しやすいようにと備えられた機能「アクセシビリティ」のうち、読み上げ機能を利用しているので、メッセージも、何かを検索しても、すべて耳から情報を得られる。しかもその読み上げは速度を変えられるため、1.5倍速で時間短縮している。私には聞き取れない速さだった。頻繁に使うLINEなどのアプリは、画面上の位置を覚えているから問題ない。メールによっては、ブルートゥースで点字キーボードをつなげて打つこともある。iPhoneのおかげで世界はぐんと広がったと言う。
 彼女は1人でどこへでも行く。ターミナル駅の混みあう構内も平気。横断歩道を渡るときも、周りの人や車の音を聞きながら、信号が変わったと察知する。高校から電車通学しているそうだ。治療院の助手を経て独立し、仲間と治療部屋を借りて、個人で鍼の仕事を続けている。
 しっかり1人で生きている姿を見て、つい「すごいですねえ」と言葉が漏れる。そして、以前のオリンピックボランティアの障害平等研修で習ったことを思い出して、しまったと反省する。「1人で来られて、すごいですね」という発言は、多数派から見た声かけだ。自分が少数派側の立場にいて、その言葉をかけられたら、幼児に対する言葉のようで反発したくならないか。障害というのは多数派側が作り出していると習った。
 しかし、本当に「すごい」。あるとき、治療の前に、大手の家電用品店に寄ってきたと言った。父親から炊飯器が壊れたと連絡があったとか。自分の経験を顧みると、炊飯器にもさまざまな機能や形があり、選ぶのにけっこうな時間がかかった。販売員の手を借りるとしても、彼女の大変さを想像してしまう。そして、彼女にはきょうだいがいるのに、父親が彼女に頼んだことについても、すごいなと思うのだった。
 年をとると聞こえにくくなる人が多い、という話題になったときだ。私の知人が、「メガネは、かければぱっと見えるようになるが、補聴器はそういう具合にはいかない。なかなか慣れない」とこぼしていた話をすると、「みんな、目に頼って、聞こうとしないからね」と言った。いつになくきっぱりとした口調だった。耳からの情報が拠り所の彼女は、聞くことにもっと集中したら聞こえるのに、と感じるのだろう。
 目が見えない人生を悔やしいと思ったことはないと彼女は言う。けれども、1つだけ残念なことがあるそうだ。
「マンガ。マンガだけは見てみたかったな。みんながすごくおもしろいって言うから」
 この言葉もまた、私の心に残っている。