どこまで説明が必要でしょうか
エッセイの仲間がかつて出版したエッセイ集『椎の実拾い』には、同名のタイトルのエッセイが収められています。秋深き景色の描写と、老年期に足を踏み入れた夫婦のそれぞれの思いが書き込まれている、情感のこもった作品です。内容を簡単に説明すると……
武蔵野の雑木林を残す公園を、紅葉を愛でながら夫と散策していた私は、どんぐりの中に混じる椎の実を見つけ、拾い始めた。最初は一緒に拾っていた夫がそのうちやめようと言い出すが、私はなかなかやめられない。夫は最後には強い口調で「もうやめなさい」と言う。夫は寺田寅彦の随筆『団栗(どんぐり)』を思い出し、寅彦の奥さんと私が重なって嫌だったとか。夫は中学1年のときに母親を亡くしており、夫の父親もまた、長く一人身で苦労していたのだ。
この夫婦が拾うのはどんぐりではなく椎の実ですが、寺田寅彦の随筆がうまく情景と重なり合って、構成もなかなか凝っています。
この作品を、エッセイを書く男性に読んでもらったことがあります。彼は50代半ばですが、寺田寅彦も内田百閒も読んでいる、たいへんな読書家です。その彼にとっては、この『団栗』の説明部分が不要に感じたそうです。
「夫がもうやめなさいと言うところで、ああ『団栗』の話だなと分かる。そもそも『団栗』は有名な作品で、教科書にも載ったことがあるはず。読んだことのある人が多い作品をここまで説明する必要はないと思います。逆に興ざめです」
エッセイでは以下のように『団栗』を説明しています。
「『団栗』には、娘を残し結核で早死にした妻の思い出がつづられている。妻と同じようにどんぐり拾いに興じる娘を眺め、亡妻の長所も短所も全部遺伝してもよいが、悲惨な運命だけは繰り返させたくないと寅彦は締めくくっている」
この説明の後、エッセイでは自分たち夫婦に話が戻り、どちらかが先に逝くことを現実として考える年齢にさしかかっている漠然とした不安や、夫に対する思いが綴られます。この説明がなければ 『団栗』を 読んだことがないエッセイの読者には筆者の意図が伝わらないのではないかと私は危惧します。
すると彼は言うのです。
「もし、その随筆の内容を知りたいと思えば、読者が自分で調べればいい。今は簡単に検索できる世の中なのだから。知りたいと思われなければ、そこまでのエッセイということではないでしょうか」
たしかに。その考え方には一理あります。
私は日ごろから、読み手が一読しただけですうっとわかるような文章を書くのがいいと思っています。けれども、彼の言うとおり、すべてを説明する必要はありません。誰も知らない専門的なことならまだしも、著名な随筆家の一番有名ともいえる作品です。知りたければ、読者自身で調べればいい。たしかにそうです。
しかし、寺田寅彦がどの年齢層にまで読まれているかという問題もあります。ある程度の説明は必要ではないかと私は思います。たとえば「『団栗』には、娘を残し結核で早死にした妻の思い出がつづられている」という説明は入れたほうがいいのではないか。それ以上のことを知りたい人には、自分で調べてもらうとして。
説明を書く書かないの判断、どこまで説明するかの判断は、とても難しい。一番避けたいのは、『団栗』を知らないために、椎の実とどんぐりを二重構造にして夫婦間の心情を描こうとした構成自体が無意味になり、このエッセイで言いたいことが読者に伝わらないことです。
こういうときはやはり、合評をうまく利用したい。読者がどこまで読み取ってくれるか、『団栗』を知っている人はどのくらいいるか、説明しすぎない境界ラインはどこか、などについて聞いてみましょう。合評の場がなければ、周りの知人に「寺田寅彦って知ってる?」「『団栗』を読んだことある?」とリサーチしてみてはいかがでしょうか。
*『椎の実拾い』(佐々木道代著 日本文学館 2007年10月1日発行)を参考にさせていただきました。佐々木さん、ありがとうございました。