エッセイは自慢話?(その2)

以前、今月の話題に「エッセイは自慢話?」という話を書きました。井上ひさし氏の言葉「エッセイは自慢話」を題材にした内容です。
井上ひさし氏がどういう場面で自慢話と定義したかはわかりませんが、このフレーズは、エッセイを書く者にとってとても気になりますね。

ある方から、このような質問を受けました。
「もしエッセイが自慢話だとしたら、合評する意味ってあるんでしょうか」
自慢話を、教室で時間をかけて合評して、いい作品にする必要はないのではないか、というのです。
私はエッセイが自慢話とは思っていなかったので、この質問にどう答えたらいいのか、すぐには判断できませんでした。自分一人で解決するのはむずかしくて、エッセイ教室に通っている方々はどう思うか、各教室で聞いてみました。以下、さまざまな意見が出ました。ご協力ありがとうございました。

・エッセイを書くことは自己表現の一つだと思う。他の人に読んでもらうのだから、できるだけ最高に近い題材を取り上げたいと思っている。なので、それが自慢と思われることがあるかもしれない。
・エッセイ教室には作品をブラッシュアップするために通っているので、それが自慢話でもかまわない。
・自慢話であっても、突き抜けた自慢なら、それはそれでおもしろいと思う。
・林真理子さんもよく自慢ぽい話をエッセイに書くけれど、その反面で自分を落としたりして、バランスを取り方がうまいなあと感じる。
・不幸自慢、病気自慢という言葉もあるように、「自慢」をそう悪く捉えることはないのではないか。
・マウントを取って喜ぶ書き手のエッセイを読みたいだろうか。読後の感想に、「どうでもいいわ」「だから何?」が残るだけだろう。
・自慢かどうかを感じるのは、読み手側の精神状態によるのではないか。書き手がどんなにうまく書いても、読み手の状態によって(たとえば仕事がうまくいっていないときとか、子どもがいる・いないとか、年齢や経済状態によっても)自慢と受け止めてしまい、読みたくないときがある。自分の経験から、そう感じる。
・「マウントを取る」という言い方は、SNS上にレストランや旅行の写真を載せて、いい暮らしを自慢していることに対して使われるようになった。エッセイにおいての自慢とは話が少し違うのではないか。
・作品にはピリピリくる「毒」のようなものがないとつまらないと思う。その毒が、時には自慢話であってもいいのではないか。 しかし、いい作品は、その存在が見えないように書かれている。
・そもそも、鼻に付くような自慢話は読む気がしないはず。読ませる作品であれば、上手に書かれているということだと思う。
・自慢というのではなく、自己満足的な気持ちは、書くときに感じることがある。
・時に、自慢に取られかねない題材を取り上げることもあるが、それを、自慢と取られないようにうまく書きたいと思う。
・いろいろな人がいるのだから、自慢話でもなんでも、いろいろな文章があっていいと思う。

どれも一理あります。それらを聞きながら私なりにいろいろ考えました。
「もしエッセイが自慢話だとしたら、合評する意味ってあるんでしょうか」という質問には、こう答えましょう。
「自慢話なら合評する意味がない、そう思うのも理解できます。でも、エッセイ教室に提出するということは、『私の自慢話を聞いて!』という気持ちではなく、そのエッセイをよりよい作品にしたいという思いがあるからではないでしょうか。教室は、互いに合評して、作品を作り上げる場です。自慢臭がしたら、そう言ってあげてください。切磋琢磨し合って、いい作品に仕上げましょう」

いい作品とは、書かずにはいられなかったその思いや感情が伝わってくる作品だと思っています。それが趣味でエッセイを書く私たちの原点ではないでしょうか。