極上の井戸端会議

「今月のエッセイ」に載せた「ときめく人がいたら教えてください」という作品を、仲間との合評会に持っていきました。断捨離中の私が、若い頃に編んだセーターを捨てる前に息子たちに見せた時の話です。
合評会が終わってから、そのセーターの写真を仲間に見せたところ、「わあ手放すなんてもったいない」「楽しいデザインね!」などと言ってくれる人もいて、ひとしきりおしゃべりが弾みました。
もし引き取り手を探したいのなら、メルカリに出してみたらどう?と言ってくれる人もいました。その人は、数年の間に、けっこうな数の不用品をメルカリで売ったそうです。
「でも、面倒そうだから……」と尻込みする私に、
「そんなことないの。とっても簡単なのよ」
そう言って、スマホを取り出すと、
「ね、手放したい物をこうやって写真に撮って、説明をつけて……」
と、ぱっぱと教えてくれました。
また、別の人はこんなアドバイスをくれました。
「物を手放すと、二度と戻ってこないから、セーターなら、椅子の背にかけておくとか、クッションにするとかして、近くに置いておくという方法もあるのよ」

断捨離については、友人たちとも話をしますが、今回のようにエッセイが出発点となって広がるおしゃべりは、どこか違うように感じました。エッセイを読んで、筆者の考え方や大事な物の歴史などを知ってから、おしゃべりに発展するからでしょうか。たわいのない井戸端会議よりハイレベルなおしゃべり、という印象を受けました。

時を置かずして、別のグループの合評会でのことです。時間的な余裕があったため、内容に関することで話が盛り上がりました。昨今の結婚事情についての作品では、自分たちの若い頃と比べ、娘に聞いた話を披露し、驚いたり感心したり。他の作品には、還暦後の健康維持の方法や、自分は本当は何をしたいのかと問いかけるものもあって、自分の体験談や悩みなども飛び出し、おしゃべりは大いに盛り上がりました。

一般に合評では、表記に問題はないか、わかりにくい箇所はないか、筆者が言いたいことが読み手に伝わっているか、説明は足りているか、もっと盛り上げる箇所を作るべきか、などなど、内容ではなく作品としての仕上がりについて意見を出し合います。通常は時間的にそこまで行うのがやっとで、内容について語り合うところまでは行き着きません。続きは教室のあとのお茶の時間にと思うのですが、一度作品から離れてしまうと、同じテンションでその作品に戻るのは難しいものです。

今回、エッセイの内容について語り合う楽しさが二度続いたので、改めて、このおしゃべりのことを「今月の話題」として書き残しておきたくなりました。
以前、合評のことを「高尚な井戸端会議」と名付けた方がいました。
「エッセイの合評は、ただ寄り集まっておしゃべりするのとは違う。書くときは悩み、書き上げたときは喜ぶ。合評で褒めてもらえば嬉しい。意見をもらえばそれも嬉しい。仲間の作品を読むときは脳がフル回転、言葉にまとめて相手に伝える緊張。傍目には単におしゃべりしているだけのように見えるかもしれないが、この井戸端会議にはそんな諸々が詰まっている」(今月の話題「エッセイグループの同窓会」より)。

内容についてのおしゃべりは、「極上の井戸端会議」と名付けましょうか。少々褒めすぎでしょうか。