何度も読みたくなる作品
前回の「今月の話題」は、次のような質問から始まりました。
「この作品はとても読みやすいけれど、筆者が本当に伝えようとしていることはけっこう深い。私は10回くらいじっくり読んで理解したいと思います。エッセイは一読して伝わるように書きましょうと言われたことがありますが、一読して理解できる作品でないといけないのですか?」
エッセイ教室で出たこの質問について、「一読してわかる文章でないといけないの?」というタイトルで書いたのでした。
この記事を読んだ方から、次のような要望がありました。
「何度も読みたくなるエッセイってどういう作品なのか、興味があります。合評のためとか、添削をするためとか、必要にかられて何回か読むことはありますが、自発的に何度も読みなくなる作品に出合ったことがありません。そのエッセイを読ませていただくことはできますか?」
たしかに、おっしゃるとおりです。「何度も読みたくなる作品」と言葉で説明されても、 作品の味わいは伝わってきません。実際に読むに越したことはありませんね。
筆者のしおたさんの快諾を得ましたので、全文を以下に掲載します。元は20字×20行で4枚、1600字の作品です。
くるぶしの
4、5歳の頃の記憶の半分以上は不思議なことにベッドの中に一人でいる私です。
窓から差し込む朝の光の、その帯の中にだけ、チラチラとホコリが白く光っているのを私は眺めています。夜は眠れぬままに、遠くからかすかに聞こえる夜汽車のガタンゴトンという音や、ポオーという物悲しい汽笛の音に一人、耳を澄ませています。
父が西洋かぶれでしたから、我が家は板の間ばかりの生活で、寝室には、おそらく誂えたのであろう中途半端な大きさのベッドを2台、くっつけて置いてありました。私や兄が幼い頃はそこへ父と母と、家族4人が一緒に寝ていました。一番幼い私が最初に寝て最後まで寝ていた可能性もあります。でも、思うに、私は一人でベッドにいたのではなく、ベッドの中で私が自分一人の世界に浸っていた、というのが真相だろうと思っています。
ある日のベッドの中で、私は自分の指を一心に見つめていました。奇妙で仕方がありません。だって動かそうと心の中で思うことで、どういう仕組みになっているのやら、指が動く。何度も何度もやってみます。そして、次の瞬間、「私は生きている」という想念が唐突に湧き上がってきました。そして、その思いに圧倒されるやいなや、「だから私は死ぬのだ」という気付きに襲われてしまったのです。
お腹の底がゾワッとつめたくなるような恐ろしさ。脳みそが締め付けられるような絶望。
どうやら、幼い私の心のどこか片隅に、好奇心という悪魔の種があったように思います。これ以降、「自分は生きている。自分はいつか死ぬ」と思うとゾワッとする、その感覚をわざと味わう遊びを密かに繰り返しました。
そのころ、冬になると布団の中に電気アンカを入れてもらっていました。蒲鉾みたいな形の木製で、その中に発熱器が入っているものです。足をその上に乗せると、くるぶしののくぼみが丁度、蒲鉾の上部のふくらみにピッタリで具合がよいのですが、アンカが硬いので、そのうちに痛くなる。そこで、少しずつ足の位置をずらしているうちに、なんだかキュッと痛気持ち良いポイントがあるのに気が付きました。ツボみたいなものなのでしょう。そのころの私には、それも不思議でした。痛いのになぜか気持ちが良いようで、やめられないという妙な感じ。ベッド、電気アンカ、死の気付き、これが私の中でワンセットの記憶になりました。
「ねえ、小さい頃に、自分は死ぬんだって思ってブルったりしたことない?」
最近、友に聞いてみると、彼女はいぶかしげな顔をして、そんなこと考えたことはないと言います。もっと楽しく、無邪気に生きていたと言うのです。
でも、私はこう思うのです。彼女にしても、他の誰にしても、幼いころに大人が思いもしていないようなことを、すでに子供たちは感じていたはずだと。ただ、幼すぎてそれを言葉にする語彙も技術もないだけなのだと。言語化されなかった思いは、いつしか潜在意識の海底に深く埋もれて、記憶から消えてしまう、そういうことなのではなかろうかと。
あれを言葉にすることは当時のわたしにももちろん出来ませんでした。だから人に話すこともできず、一人であの恐ろしい思いに向き合っていたと思います。恐ろしさの中に、説明できない面白ささえ感じていたことも。
今、こうして文章に綴ることができるのは、おそらく、あの時の心理的な経験に、くるぶしの痛みという肉体的な感覚を紐付けたことによって、それが水面に浮かぶ「浮き」となり、かろうじて記憶が潜在意識の海底に沈み込むのを防いでくれているからだろうと。だからいまだに記憶として残っているのだろうと。そう思っているのですが、どうでしょうかね。