令和の日記
先日のエッセイ教室に、女性が一人、見学に来ました。教室が終わってから、その見学者にいかがでしたかと声をかけたところ、質問を受けました。
「教室で合評していた作品のなかに、エッセイというより、日記のように感じた作品があったのですが、エッセイと日記は同じなのですか?」
私はこう答えました。
「エッセイは、日記とは違います。日記は自分が書いて自分が読むだけで、ほかの人が読むことを想定していません。けれども、エッセイには読み手がいて、読み手を意識して書きます。そこが大きな違いなのです」
その見学者は、「でも」と話を続けます。
「私はSNSで日記を書いています。フォロワーの人が読んでくれていて、コメントもたくさん来ますよ」
見学者は「日記を他人に読んでもらっている」と言い、私は「日記は自分が読むだけ」と言い、話はかみ合いませんでした。
どういうSNSなのか尋ねると、コミュニティのサイトがあって、そこで文章を発信しているとか。
私はあとでその見学者が投稿しているというサイトを見てみました。同じ趣味をもつ仲間と出会える大人向けのサイトで、会員数も多いようでした。「日記」と「フォト」という投稿機能が用意されていて、「日記」には文章を投稿できます。実際に「日記」欄を見てみると、「今日は○○公園で花見をしました」「歌の発表会を聴きにいきました」「こんな夕飯を作りました」など、身近雑記的な文章が多く投稿されていました。会員にならないと文章は全部読めないので、最初の数行を読んだだけの感想ですが、仲間とのおしゃべりを楽しむ場のようでした。
現代は、このように人に見せるものも「日記」と呼ぶ。だから、私と見学者との「日記」についての話がかみ合わなかったのでした。理由がわかりました。
私がエッセイを習い始めた頃、それは30年近く前になりますが、「エッセイとは何か」を消去法で教わったことがあります。
エッセイは、文体的に詩や戯曲ではない。
エッセイは、フィクションではないので、小説とは違う。
エッセイは、日記とも違う。読み手がいるという点で。
こうやって、「エッセイとは何か」を考えていくのです。
日記が消去法の一つとして挙げられたのは、当時は「日記」と言えば、自分だけが読むもので、他の人には読ませないから思いの丈を綴ることができる、人の目を意識せずに書ける、という共通認識があったからなのでしょう。
令和はSNSの時代となり、「日記」という言葉から受けるイメージもずいぶん変わったのだなと、気づかされました。