エッセイとは?
エッセイ教室に新しく入られた方や、体験で来られた方から、「エッセイって何ですか?」という質問をよく受けます。これから学んでみようとするものが何なのか、知っておきたいのは当然のことです。けれども、この問いへの答えはむずかしい。ひと言ふた言で、相手に納得してもらえるような答えを、私はもっていません。
辞書に載っているような定義「自由な形式で自分の見聞・感想・意見などを述べた散文」を伝えて、これがエッセイですと答えても、相手はわかったようなわからないような気持ちになるだけでしょう。
私はこう言うことにしています。
「しばらく書いてみてください。エッセイと思われるものを。そのうち見えてくると思います」
私もそうでした。25年前エッセイ教室に入ったときに、「エッセイとは」の説明はなかったので、周りの人が書くような文章を書けばいいのかなあと、見様見真似で文章を書いていました。合評での「もっと筆者本人が出てこないと」「そのときどう思ったか、それを膨らませてほしい」「この作品で何を伝えたいのですか」などという意見を聞いて、ああそういうものがエッセイには必要なのだなと思いました。そうやって、自分のなかでエッセイ像を作り上げていきました。
けれども、「エッセイとは何ですか?」と聞かれても、「日記じゃなくて、小説でもなくて、ノンフィクションに近いけれど、『私』がそこに登場する必要があって……」と長々と説明するしかなく、簡潔な答えがないままです。
ですので、書くことによって、自身でエッセイ像を作り上げてほしいと思っているのです。
先日、教室に提出されたエッセイのなかに、
「いわゆる自分史と言われるような、自分がどう在ったかを書きたいわけではない。自分の人生に関わった誰かを文章に表現したい」
というくだりがありました。まさに、その筆者にとっての「エッセイとは何か」が作品に書かれていたのです。
その作品の合評では、特にその部分についての意見が多く出ました。
「私も、自分がどういう人間かということではなく、どう感じたか、どういうものに触れたか、そういうことを書きたい」
「エッセイにはどういうことを書くか、改めて考えてみた」
「自分の記憶にとどめておきたいことを書くのがエッセイだと思う」
「人との出会いや別れ。消えてしまうからこそ、書き留めておきたい」
さまざまな意見が交換されました。
私はしばらく何も言わずに、そのようすを見ていました。
開講して2年半、中にはまだ在籍1年に満たない人もいる教室ですが、それぞれの段階で感じた「エッセイとは何か」について、皆自分なりの意見をもっています。毎月書いて、毎月仲間のエッセイを読んでいるうちに、「自分にとってのエッセイの意味」が見えてきたのでしょう。どれも貴重な意見でした。
私が最初に変に定義づけしなくてよかったと思いました。そして、こうやって意見を交換しているようすを、頼もしくうれしく感じました。
意見が出尽くした頃に一つだけ、私のエッセイの師木村治美から習ったことを伝えました。「自分史」という言葉からは、「自分のこれまでを年代順に書いたもの」という印象を受けますが、折に触れて書いたエッセイをまとめたもの、それも自分史といえます。
木村治美著『知性を磨く文章の書き方』(PHP研究所、2000年1月)の「自分史のスタイル」という項には、「ひとは自分史をなんで書きたいと思うのだろう」という文から始まり、「エッセイと自分史は、『自分』を描くことにおいて、同じものだと思っている」「さまざまなテーマについて個々に書かれた、エッセイの集合体としての自分史」「短いエッセイを書きため、綴りあわせた自分史のほうが、私たちには、書きやすいであろう」などと続きます。
「自分史」とは? エッセイ同様、答えは一つではないようです。