自分と近すぎるエッセイ
雑誌の書評で、その本に興味をもちました。50代の女性が自身の半生を綴ったエッセイです。
本を読むとき、たいていの場合は、まず「はじめに」や「あとがき」から読み始めます(ミステリーのように結果を知りたくない本の場合は、もちろん本文から始めますよ)。
その本のあとがきには、「今の自分を伝えるためには、親について書かなくてはならない。読者はその話を聞きたくないかもしれない」というようなことが書かれていて、あまり書きたくない子供時代があったのだろうと感じました。
そして本文を読み始めたのですが、最初の2編で先に進むことができなくなってしまいました。筆者が中学生のころ。父親はすぐに機嫌が悪くなり、その態度にいつもびくびくしている母親はネガティブ思考。筆者は学校には楽しく通いますが、家では常に両親の顔色をうかがっています。
筆者の文章のうまさも手伝って、どの場面も臨場感に溢れています。いえ溢れすぎています。父親の怒鳴る様や母親のやつれた表情が見え、筆者の心の悲鳴が聞こえてきます。それらが私の心にグサグサと突き刺さって心の逃げ場がなくなり、読めなくなってしまったのです。
1週間ほど本を手に取ることができませんでした。心を落ち着けてから、その先を読み始めました。その後は筆者の人生にグイッと引き込まれ、あっという間に読み終えました。
読むのがつらくて、その先を読めなくなるなんて、初めてです。以前に読んだ別のエッセイにも、昭和の頑固おやじが家では威張り散らし、妻は耐え忍んでいるような場面は登場しましたが、読めなくなることはありませんでした。それなのに、今回はどうしてでしょうか?
これは私なりの推察ですが、今の筆者と子供時代の筆者との距離が近すぎるからではないでしょうか。筆者が、子供時代の自分をもう少し離れたところから見つめていれば、子供時代の親への負の感情-憎しみ・恨み・怒り・つらさ・じれったさなど-をすべて直球で読み手に投げ込むことはなかったのではないかと思うのです。
けれども、本書は大手出版社が出した本ですから、編集者もついているはずです。両親をあえてこのように書くことが、その葛藤を乗り越えた今につながるという判断で、ここまで書いたのでしょう。
エッセイでは、文章の中に筆者自身「私」がいることが求められます。それと同時に、「書いている自分」と「書かれている自分」のあいだに距離をおくことが必要とも言われます。言い換えれば、自分を客観的にみているか、です。しかし、書いている自分と書かれている自分の距離は何センチと測ることはできません。書き手や読み手の感覚の問題ですから、この距離なら良い、これは悪いというマニュアルもありません。ましてや、自分の作品の客観性について、筆者自身はなかなか判断しにくいものです。
このような場合は、読み手の反応が一番の手掛かりとなるでしょう。とはいえ、読み手によって感じ方はそれぞれで 、いろいろな反応がでてきます。最終的には、やはり書き手自身の判断にゆだねられることになりますね。