一読してわかる文章でないといけないの?

先日のエッセイ教室で、ある作品の合評の際に、次のような質問が出ました。
「この作品はとても読みやすいけれど、筆者が本当に伝えようとしていることはけっこう深い。私は10回くらいじっくり読んで理解したいと思います。エッセイは一読して伝わるように書きましょうと言われたことがありますが、一読して理解できる作品でないといけないのですか?

その作品は、たしかに一読しただけですっと意味が伝わりました。むずかしい言葉は一つもなく、文法的にも気になる箇所はない。話の流れも自然で、脇道にそれることもない。非の打ちどころのない「一読しただけで伝わる」作品です。それどころか、興味を引く内容で、引き込まれるようにして読みました。
その内容には、子ども時代に感じたことでありながら、哲学的な深い意味合いも含まれているのです。一読して表面的な話の流れはわかったけれど、書き手の意図することをしっかりと理解するには、2度3度と読む必要がありそうです。また、何度か読んできちんと理解したい、と思わせる作品でした。

エッセイを書く際のポイントとして、
「一読しただけで伝わる(すっとわかる)作品であること」は、私もこのエッセイ工房の「書き方のヒント」でも取り上げています。
読みにくい(文法的な理由、むずかしい言葉が多いなどで)、話が脇道にそれてばかり、時間があちこちに飛ぶ。そういう作品は、途中でつかえながら読むことになり、意味がすーっと入ってこないだけでなく、結局何が言いたい文章なのかわからなくなり、最後まで読まずに、途中で放り出してしまいがち。特に趣味で書かれたエッセイの場合、読み手の評価は厳しいものです。

けれども、冒頭の質問の対象となった作品は、この「一読しただけで伝わる」という段階は完璧にクリアしていました。「一読して伝わる」というアドバイスの先にありました。奥深い内容を味わうために何回も読み返したいと読み手に思わせるとは、なんて素晴らしい作品なのでしょう。

エッセイの題材にはいろいろあります。軽く楽しく読めるものもいい。楽しくなければいけないことはない。悲しいものだって、書く価値があります。今回のように、深い意味をもつ作品は読み応えがあり、時間をかけて読みたくなる。どれもエッセイなのだと、改めて認識しました。
エッセイ教室では、こうして、いつも新たな気づきをもらっています。