個人情報の取り扱い

 趣味として長いこと書き続けたエッセイを、還暦をきっかけに1冊の本にまとめた。
 絵が得意の次男が、挿絵用のイラストを30近くも描いてくれた。彼にとっても、この本は時間も手もかけた作品となり、ネットでつながっている絵の仲間に紹介したかったそうだ。ところが、私のエッセイには次男本人も登場するし、彼が育った家庭や家族のことも書かれている。そもそも、事実を書くのが大前提のエッセイであるから、言ってみればプライバシー満載の本である。この本を紹介したら、自分の本名だけでなく、育った家庭環境までばれてしまう。ネット上でハンドルネームを使う彼は、「だから、誰にも本のことが言えなかったよ」と残念がっていた。
 個人情報の保護が取り沙汰されている現在において、こうして1冊にまとまったエッセイは丸腰で敵地にいるようなものだ。エッセイ教室では「悪口を書いているのでなければ、店名を出してもいいと思います」などという意見が主流派だが、実名が書かれたエッセイが並んでいると、その気になれば、筆者の行動を追いかけることができるのだ。
 もう1つ気になったのは、この本を読んでくれた知人女性の言葉だ。
「心の中を、私がそこまで知ってしまってもいいのかと思っちゃいました」
 友人同士のふつうのおしゃべりでは、心の底に抱いている思いまでを相手に明かすことはまずない。それなのに、エッセイにはそうした思いが綴られていて、彼女は他人の心を覗き見してしまった気分になったのだろう。とはいえ、それを読んで嫌な気がしたわけではなく、共感したり、自分の子育て中のことを思い出したりしたとは言ってくれた。
 しかし、彼女の言葉「そこまで知ってしまってもいいのか」は、私の心にずっと引っかかっている。エッセイ教室では、「エッセイには、わたしを出す」と教わってきた。互いの作品を読み合うときも、そこが合評の重要なポイントだ。「もっと心情を書き込むように」「自分をさらけ出すことも大切」という意見に疑問をもったことはなかった。仲間とエッセイを読み合うなかで、互いに「少々のわたし」では物足りなくなり、「わたし」の露出に対して鈍感になっていたのかもしれない。
 本にまとめる際に、他人に知られても問題のない作品だけを選んだつもりだったが、予想外の反応に出くわした。エッセイにおける個人情報は、登場人物のプライバシーはもちろん、心の中の取り扱いも注意する必要があるようだ。エッセイ教室では、「『わたし』を出すときには、出し方、描き方、演出の仕方が大切」と教わったことも、今一度、肝に銘じておこう。