他人に成り切って書く楽しさ

ときどき、文章を書く仕事の依頼を受けることがあります。これから本を出す筆者の原稿や資料を渡されて、整理し、本の原稿となるようまとめ直す(書き直す)という仕事です。
まずは、渡されたものをすべて読み込み、それらの内容を把握して、本の構成を考え、その順序に書き直します。内容として不足している個所は、著者に取材したり、図書館やネットでリサーチしたりもします。
この仕事の楽しいところは、「私」から離れて、他人に成り切って文章を書けるという点です。

エッセイを書くときは、自分の身の回りや頭の中から、「私」が題材を拾い出します。文章も、白紙の状態から「私」が書き始めます。
私が書くから、突拍子もない口語の文章は生まれません。突拍子もないどころか、書き言葉をきちんと使うという長年の習性から、「いろな」ですら「いろいろな」にしたくなります。「と言われたです」とは絶対に書けません。「と言われたです」とします。自分の作品には、やはり自分が納得した言葉でないと使えないのです。

ところが、この仕事は、筆者が男性のこともあれば、年齢もさまざま。今回は30代の女性です。原稿の中にはブログに載せた文章もあり、(私にしてみると)若さいっぱいの口語表現があちこちに使われています。「めっちゃ」「キター!」はおとなしいほう。本の原稿に直すのだから、書き言葉に変換しなくてはなりませんが、筆者の雰囲気を壊さないよう、ある程度は残します。私自身のエッセイとは、趣がずいぶん異なります。

また、内容についは、私がはじめて聞くようなものもあり、自分の中に一度しっかり落とし込んで、それを再構築します。私には思いもつかない題材を、その筆者本人の文章らしく書いていく。「私」では書けない文章が、この仕事では書けるのです。
自分とは離れて、他人に成り切って、自由な気持ちで書くことに、楽しさを感じています。

エッセイこそ、自由に書いていいジャンルのはずなのに、窮屈な囲いの中に私を閉じ込めているのは、自分自身なのでしょうか。いろいろな構成をチャレンジしてみようか。ペンネームにしたら、もっと羽ばたけるのか。ときどき考えてチャレンジしますが、「私」が書くエッセイをがらりと変えるのはむずかしい。結局はそういう結論に落ち着いてしまいます。
エッセイとはそういうものなのでしょうか。