差別語について

右足をケガしたときのことです。右足を地面にうまく付くことができず、引きずって歩いていました。ケガのようすを誰かに口頭で話すときは、つい「びっこ引き引き、家の中を歩いているの」と言ってしまいましたが、「びっこ」は差別語です。
エッセイに書くときには、この言葉を避けたほうがいいと思いつつも、「びっこ引き引き」という表現が、ケガのようすをうまく表しているような気もしました。自分のことを言うのであれば、この表現を使ってもいいのでしょうか。
これまで、差別語について深く考えたことがありません。図書館で調べてみると、次のようなことがわかってきました。

そもそも、言葉自体に差別の意味はなく、人間が差別するつもりで使うから、その言葉が差別の色合いをもつようになる。そういう差別語が大半だそうです。
それだけにとどまらず、隠喩(メタファー)として使用されることで、さらに差別の意味が膨らみます。たとえば、「めくら」という言葉から、「めくら判(文書の中身を吟味せずに承認の判を押すこと)」「めくら滅法(わけもわからず事を行うこと)」「目明き千人めくら千人(世の中には道理のわかる人もわからない人もそれぞれに多い)」などという言葉が生まれ、「めくら」の意味が捻じ曲げられていきます。
『ピノキオ』の童話には、「びっこのきつね」と「めくらのねこ」が悪者として出てきます。障がい者は悪いことをしかねないというイメージを、読者である子どもたちに植え付けるのではないかとして、この本の出版に反対する意見もあります。

自分のケガのようすを表すのに、「びっこ引き引き」と書くのが一番しっくりくると感じたのは、私が育った時代にはまだ一般に使われていた言葉で、他の言い換えを知らないからだと気づきました。そして、差別語の発生の経緯や、現代の差別語に対する問題意識を知った今は、もう使いたくありません。
エッセイには、「家の中では、壁やテーブルを伝い、9割がた左足に頼り、右足はつま先だけを床に付いて、なんとか移動した」と書きました。このほうが、よほど、状況が伝わりますよね。

参考文献
『私家版 差別語辞典』(上原善広著 新潮選書 2011年5月)
『作家と差別語』(塩見鮮一郎著 明石書店 1993年12月)
『マスコミと差別語の常識』(田宮武著 明石書店 1993年3月)