エッセイグループの作品集

エッセイの教室やグループで書き続けていると、作品集を出そうという話が持ち上がります。パソコンが普及していない時代には、「自分のエッセイが活字になるのがうれしい」という理由がありました。今は活字に喜びを感じることはありませんが、装丁された冊子に文章が載るのはやはりうれしいことです。

作品集を出すことにどういう意味があるのか、考えてみました。
第三者に読んでもらえる
エッセイは他人に読まれることを前提に書きますが、読み手はいつもの仲間に限られるのが現実。知らない誰かに読んでもらう、またとない機会となります。
知人に読んでもらえる
自分のエッセイを知人に見せるのは勇気がいることですが、「こういう仲間とこういうエッセイを書いています」と作品集を渡すほうが、気が楽です(少なくとも、私は)。
グループ(教室)の活動証明
定期的に刊行すれば、それ自体がグループの記録となりますし、作品集の作成に向けて、仲間も結束します。また、メンバーが多いグループであれば作品集が互いの交流の場ともなります。

さて、作品集に載せるためには、各自の作品を完成させなくてはなりません。ふだん書いているエッセイも合評を受けますが、少し手直しする程度で、「完成」まで高めることはあまりありません。また、作品集が第三者の手に渡るということは、書き手の背景をまったく知らない人が読むということです。お互い見知った仲間に読んでもらうときの甘えは許されません。「誰もが一読してすーっと理解できる作品」に高めなくてはなりません。

私が参加しているエッセイグループでは、年に1回、作品集を発行しています。テーマは2題渡されますが、自由題でもかまいません。枚数は2~4枚、レイアウトも決まっています。
毎年、作品集に掲載するエッセイの合評には熱が入ります。時間をかけて、細かく見ていきます。

先日行われた合評でも、いろいろな意見が出ました。
テーマ
この内容を書きたいのなら、自由題のほうがいいのではないか/テーマには合っているが、この古い話を出してきた理由を書く必要がある
登場人物
家族関係が複雑なので、なるべく簡略化すべき/登場人物が多いので減らしたほうがいい/「K子」「恵子さん」「恵子ちゃん」どれがいいか
タイトル
柔らかいタイトルのほうが、内容と合っているのではないか/タイトルがしっくりこない
表記
漢字かひらがなか、作品内では統一/この動詞は漢字のほうがわかりやすい(その逆も)/補助動詞はひらがな/句点の位置が不適当
・その他
文がねじれている(主語と述語が呼応していない)/「……ので、……だ」という形の文が、続いて出てくる/1行開けが多すぎる/段落の最後の行が1文字だけというのは、見た目にどうか/漢字が多くて、全体に黒っぽい/セリフのカギカッコの位置を揃える

どれも、いつもの推敲時のチェック項目と変わらないようですが、通常の合評であれば、こんな些細なことは敢えて言わなくてもいいかなと思う箇所まで、意見を出し合います。書き手にとっても、誰かから指摘されないと気がつかない箇所もあるので、言ってもらったほうがありがたいのです。
合評のあとは、これらの意見を参考にして書き直します。書き直しを再度誰かに見てもらうこともあります。
このグループの作品集は30巻を超え、毎年、作品集を出すことが、グループの活動の大きな柱となっています。