合評を受けとめる

「今月のエッセイ」に載せた『ドラマも原作本も』は、書き上げた後に、エッセイ仲間に合評をしてもらい、その意見をもとに推敲して完成させたものです。

合評」とは、「ある作品について、参加者みんなで意見や感想を出し合うこと」を言います。あまり一般的な言葉ではないかもしれません。広辞苑には「いく人かの人が集まって同じ問題や作品について批評すること。また、その批評」と書かれています。私は、長年通った木村治美エッセイ教室で、この合評形式でエッセイを学んできました。他人の作品を読んで意見を述べることは、自分のエッセイを第三者的に見る力を向上させるように感じます。

エッセイの読み取り方は、読み手によってさまざまです。合評では、いろいろな意見が出ます。もちろん、皆が同じように共感したり、いい表現だなと思ったりすることもありますが、人によって、気になるところや受け取り方は違うのですね。 共感する、しない。このくだりは不要、いや必要。まったく逆の意見が出ることもあります。そして、それらが正しいとか正しくないとかは、誰も判断できません。どれもが、その読み手にとっては正解なのです。筆者が他の人の意見をすべて聞き入れて、自分の作品に取り入れようとしたら、大変なことになります。収拾がつかなくなります。

私は常々、合評の意見は、自分が納得したことだけを取り入れようと思っています。とはいえ、納得しない意見に対して、すべて耳を閉ざすというわけではありません。
すべての意見をまずは自分の中に取り込みます。賛同しかねる意見も、反論したくなる意見も、すべて。自分の中で反芻して、その作品にとって取り入れるべき意見かを考えます。そして、自分が納得した点について再度推敲して、作品を完成させます。

今月のエッセイに載せた作品『ドラマも原作本も』に対しての合評では、タイトルと最後の3行について意見が出ました。
●タイトル
もとのタイトルは『ドラマを見てから本を楽しむ方法』でした。
エッセイの内容は、自分の記憶力の低下により、ストーリーの最後を覚えていなかったので、ドラマを見てからでも本を楽しむことができたというものです。自分の記憶力低下をシニカルに捉えて、あえて「楽しむ方法」としました。
合評では、「ストーリーの最後を覚えていたら、本を楽しめないということですか?」という質問を受けました。私がこのタイトルをつけた理由を話して、それ以上の意見は出ませんでしたが、あとで反芻してみると、「このタイトルでは、読者は記憶力限定の話とは気づかず、一般的な楽しみ方を想像してしまう」ことに気づきました。読み手に誤解を与えるタイトルは避けたいものです。 と納得して、『ドラマも原作本も』というタイトルに変えました。少なくとも誤解は生まれないようにと思ってつけたのですが、これが最適なタイトルかどうかは、また別の問題です。
●最後の3行
自分の記憶力の低下について書いたので、読者を心配させてはいけないと思い、「結末を読む前に、最後の場面を思い出したから、記憶力はもうしばらくは大丈夫と思うことにしよう」という一文を最後に入れていました。
これは合評の出席者全員から、「必要なし」と言われました。ストーリーの結末を忘れるということは誰にも起こるし、この最後はまったくもって余計、話が違う方向に行ってしまう、ということでした。
合評では「最後の3行」という言い方をします。何か最後をまとめなくてはと、不要な文をつい付け加えてしまう。しかも、不思議なことに、たいていの場合、それが3行なのです。それを知っていながら、最後の3行を指摘されてしまいました。この指摘についてはすぐに納得し、すぱっと削りました。

このように、合評で指摘されたことには、ただ削ればすむものありますが、タイトルの変更となると、これまた合評を受けたくなるような修正です。合評の何を取り入れるか、取り入れないか。どこを変更するか、しないか。どう修正するか。最後の推敲には、決断も必要です。