気になる言葉(5)「悲願」

2022北京オリンピックが閉幕しました。4年に一度の大会に照準を合わせて、最高のパフォーマンスをする選手たち。尊敬の念をもって、その努力と健闘に拍手を送ります。

金メダル獲得のニュースを見ていつも気になったのは、「悲願の金メダル」の見出しが躍ることです。前回が銀メダルだった選手には必ず「悲願」がついてきて、まるで「金メダル」の枕詞のようです。
悲願という言葉を使われると、そこには悲壮感が漂います。たしかに、その選手は金メダルを目指して、並々ならぬ努力を重ねてきたでしょうが、悲壮感というものとは違うのではないでしょうか。

「悲願」について辞書で調べてみました。もともとは仏教用語なのですね。
「仏・菩薩が慈悲の心から衆生(しゅじょう)を救おうとして立てた誓願」(明鏡国語辞典第三版)
私なりに少しかみ砕いて、「仏や菩薩が、この世に生きるものを救おうとして立てた誓い」と解釈しました。辞書には、2つ目の意味として、
どうしても成し遂げたいと思う悲壮な願い
と載っていました。その使用例が「悲願の金メダル」というわけです。

もう少し調べてみると、「」という文字は、仏教において「めぐみぶかい心」とか「あわれみ」を意味することがわかりました。そもそも「悲願」という言葉には「悲しい」意味はなかったのです。「悲」にはもちろん「悲しい」という意味もあるので、いつからか、「悲壮な」というニュアンスを持つようになったのではないかと、私は推測しました。

意味のほかにもう一つ気になったのは、悲願とは他人に言われるものなのかということです。「どうしても成し遂げたい。これは私の悲願だ」と本人が思うものであって、周囲の者たちが「金メダルは彼の悲願だ」と決めつけていいのだろうか。実況やメディア側がそう公言していいものなのか。

金メダルに喜びながらも、心の中ではずっと、もやもやしていました。「金メダルおめでとう」だけではいけないのでしょうか。