言葉を尽くして書く

あるエッセイに、認知症の患者のことが書かれていました。
隣人の90歳過ぎの女性に、急に認知症の症状が表れた。わが家に用もなく上がり込もうとした。何度も徘徊する姿も見かけた。彼女の家族が門を固く施錠すると、ガチャガチャ開けようとしたり、声を上げたりする。自宅の窓からそのようすが見える。
と、隣人の行動を書いたあと、「私と同様に、近所の人たちも、気の毒に思いつつも、離れていくだろう」と締めくくっていました。

そのエッセイを読んだ私は、「離れていく」という表現に違和感を覚えました。
認知症は今や高齢者の5人に1人がかかる病気です。自分がかかる可能性も大きい。最近では、この病気に対する社会の理解も深まり、町ぐるみで徘徊を見守る取り組みも耳にします。
それなのに、症状の特性から病人を見放すような「離れていく」という表現が使われています。言葉選びにもっと気遣いが必要ではないでしょうか。
一方で、エッセイは実際に起きたことを書くものです。ですから、筆者が、徘徊する認知症の隣人から「離れていきたい」と思ったのなら、その気持ちをそのまま書いてもいい、という意見もあるかもしれません。

この問題が頭から離れず、しばらく考えているうちに、この「離れていく」という表現が、実はとても曖昧なことに気づきました。
筆者はどういう意味で「離れていく」と書いたのでしょうか。
もしかしたら、筆者は、隣人に急に徘徊の症状が表れて、驚き、悲しみ、自分の将来を心配し、現実を直視したくないという思いにかられ、自分の気持ちが収まるまで少し距離をおきたいと思ったのかもしれません。それが「離れていく」という言葉につながったのだ、とも考えられます。

あくまでも推察です。書き手の本当の気持ちはわかりません。
「離れていく」という表現の裏にある思いは、このエッセイでは重要な部分です。曖昧なままでは、読み手にその思いが届かないどころか、誤解を与えかねません。言葉を尽くして書くことの必要性を感じました。