死を悼み、受け入れるために書く
前回のエッセイ教室のことです。亡くなった友人のことをエッセイに書いた筆者が、すまなそうな顔をして言いました。
「こんな話を続けて書いて申し訳ありません。次は明るい話題を考えます……」
そういえばこの筆者は、2か月前には叔父さんの葬儀の場面から始まるエッセイを提出したのでした。2編とも、亡くなった方との思い出や、残された家族に向けた思い、コロナ禍の葬儀にも触れていました。「申し訳ない」などということは、もちろんありません。書きたい、書き残しておきたいという強い気持ちに押されて、これらのエッセイができあがったのでしょうから。
実は私も、亡くなった友人のことをエッセイに書いたばかりでした。
小学校の6年間、同じクラスだった男の子で、高校でもクラスが一緒でした。その後は、同窓会で時々会っておしゃべりしたくらいですが、幼馴染みのような気心の知れた間柄です。その彼の突然の訃報に驚きました。このご時世で葬儀は執り行わないというので、自宅に行ってお別れをしてきました。一緒に弔問に行った同級生2人と、心ゆくまで語り合いました。
ですから、気持ちのけじめがついてもよさそうなのに、心が落ち着きません。何かにつけて彼の小学校時代の茶目っけたっぷりの笑顔が脳裏に浮かびます。60代前半という年齢で逝くのは早すぎるという思いからか、それとも急なことだったからか、なかなか心の中のざわめきが静まりません。
そこで、彼のことをエッセイに書くことにしました。エッセイですから、日記のように、ただ思いの丈を綴るのとは違います。読み手に話が伝わるように、客観的に書かなくてはなりません。
さて、彼のどういうところを読み手に知ってほしいのか、いろいろ思い出しながら考えました。趣味に生きた人だった。生活の場を海の近くに移し、充実した暮らしを楽しみながら仕事をしていた。小学校時代のやんちゃな笑顔、優しい性格を物語るエピソード。弔問の際に聞いた話から、短いけれども幸せな一生だったと確信したこと。これらの話を伝えるために必要な情報も書き込む。
何日もかけてこれらの作業をしていたら、完成する頃には私の心は落ち着いていました。
エッセイを書くという作業は、ただ、出来事を書き連ねればいいわけではありません。そのとき、自分はどう思ったか、どう感じたのか、についても書き込みます。「悲しい」のなら、なぜ、どうして、どういう点が、などと掘り下げます。言葉で単に「悲しい」と書いただけでは、その悲しさが伝わりません。作品を仕上げるまでに、時間をかけて、心の中で何度も自分と対話をしていたのでしょう。それは、相手の死を悼むと同時に、自分がその死を受け入れる作業の過程だったと、改めて気づきました。
しかし、これは幼馴染みの話です。もっと近しい関係の場合は、すぐに書く、ということは到底できないと思います。時がたてば、書けるでしょうか。その人をもう一度思い出しながら、自分との関係をたどりながら、そして、自分と対話しながら書けるようになるでしょうか。
ずいぶん前に他界した父については、その後10年以上たってエッセイを書くことを覚えてから、何編か書き上げました。私の大切な作品として残っています。