「なまもの」を書く~新型コロナウイルスの場合~

6月、7月のエッセイ教室では、新型コロナウイルスに関連した内容のエッセイを多く見かけました。
緊急事態宣言中、どう過ごしていたか。宣言解除後の生活の変化。初Zoom体験。楽しみにしていた旅行のキャンセル。出張先からの帰国の顛末。マスク騒動。久しぶりの外食時の喜び。
など、題材は多岐に渡りました。新型コロナウイルスのせいで、多くの人の生活が変わり、今後どうなっていくかもわからず、不安は続きます。エッセイを書く人なら、この「今」を書いておきたいと当然思われるでしょう。

こういう時事的な、現在進行中のものについて、私がエッセイを学んできたグループでは、「なまもの」という呼び方をします。「なまもの」について書くときには、他の題材とは違う難しさがありますので、以下を『書くために読むエッセイ』(木村治美編、文芸社、2002年5月出版)より引用しました。なお、この本では、「アメリカ同時多発テロ事件」「阪神・淡路大震災」「イチローのメジャーリーグ1年目の活躍ぶり」についての作品が、「なまもの」をテーマとしたエッセイとして取り上げられています。

(「なまもの」とは何と説明したらいいでしょうか、という問いに対して)
「時事性が強いもの。今起こっていることで、時間が経ったら状況や解釈がガラッと変わる可能性があるもの。今起こっているからみんなが知ってる。その、みんなが知っていることをどのくらい書くか、状況は刻々と変化するので、それをどういうふうに処理するか、あえて書くか書かないか、そういうテーマを私たちは便宜上『なまもの』と呼んでいます」

新型コロナウイルスについては、今現在、全世界のほとんどの人々が渦中にいて、その状況を知っています。エッセイを書く場合、この病気についてどこまで書くか、書かないかを考えなくてはなりません。
発端は2019年12月の中国武漢と言われています。日本では2020年に入ってから、クルーズ船や屋形船、その後の学校休校、緊急事態宣言、マスク問題など、いろいろなことが起きています。
エッセイは年表ではありませんので、それら全部はもちろん書きません。
忘れてはならないのは、そのエッセイで自分が語りたいことを伝えるうえで必要最低限の状況説明に徹するということです。それ以外の背景説明を加える場合は(どうしても書きたくなります)、なるべく簡潔にしないと、知らぬ間に年表に近いものになり、読み手に「そこまで書かなくてもいいのではないか」と言われてしまいます。

今回の新型コロナウイルスについて書くときに特に難しいのは、まだ解明されていない部分が多いということです。以前、正しいと思われていた事実が、その後、謝りと判明する。逆のパターンもある。世の中で言われているほど恐れなくていいという人もいる。科学者や医師によっても発言内容が異なります。エッセイに書く場合、その不確定な要素に世界も自分自身も揺れているという自覚が必要ではないかと思うのです。

たとえば、ジョギング・マナーについてもいろいろと意見が分かれました。屋外だからマスクは不要という意見。その後、ランナーの飛沫が10m後方にまで撒き散らされるデータが画像と共に話題になり、マスクをしないと危険だという意識を世の中に植え付けました。しばらくして、熱中症を考えるとマスクは危険と判断され、人のいない時間や場所を選んで、マスクなしでジョギングしましょうと言われるようになりました。
ですから、ジョギングのエッセイを書いた場合、それがいつの時点であったかによって、まるっきり違う内容になりかねません。そういう揺れが今はまだあるのです。

今まで「なまもの」と呼んできたものが、これほど長い期間続くことはありませんでした。エッセイを書くうえでも未知の体験です。withコロナが「新しい日常」という日常になるのであれば、「なまもの」を書くときの考え方も変える必要があるかもしれません。「新しいなまもの」をどう扱うか、今後の課題となりそうです。