恥ずかしいエッセイ

「こんなエッセイで恥ずかしいのですが……」
エッセイの合評で自分の番になったとき、こういうセリフが思わず出てしまったことはありませんか?
自分の前に合評されたエッセイが、社会的な内容や時事問題、または人生論的な思考を扱っている。それに対して、自分のエッセイが身の回りの些細な話で、スケールが小さい。そんなときに、冒頭のような言葉を言いたくなります。

私もつい言ってしまいますが、でも、こうも思うのです。
エッセイの題材に、良いも悪いも、ましてや取り上げて恥ずかしいものなんてないはずです。社会的な難しいことを取り上げるのがすごいわけではありません。小さな小さな話題を取り扱うのもまた、エッセイの醍醐味ではないでしょうか。どんな題材でも、読み手の心に届くエッセイになり得ると思います。

実際にそうしたエッセイを何編も読んできました。
たとえば、親の介護、子育ての悩み、家の断捨離の話。どれも、家庭内という狭い世界でのことですが、読み手の多くも同様の経験をしていて、共感したり、納得したりします。また、これからそういう場面を迎える読み手は、新たな貴重な情報として受け止めます。時事問題を取り上げたものでも、書き手ならではの切り口がなく、誰が書いても同じような内容が綴られているだけでは、読み手は興味を失います。
どんな題材であっても、読み手に伝えたい何かが存在する作品であれば、それはエッセイとして立派に成立すると思います。

以前、「参考書」として取り上げたことのある『名文を書かない文章講座』(葦書房 村田喜代子著 2000年9月20日発行)の中に、興味深い内容を見つけました。
書くときの悩みの一つに「作品のスケール」の問題がある。自分の書くものが狭い世界を扱っているような気がしてしまう。だが、誰かに「家庭の主婦の平凡な生活を書いてどうなる?」などと言われても、惑わされてはいけない。という話に続いて、
「自分が書きたいものは、今を生きている自分の最重要の関心事だ。現在生きている自分が興味を持っている題材なのだから、それは現実の社会と必ずどこかで呼応している。その自分と世の中との連結点を考えればいいのだ」
と書かれています。その連結点は「作品の普遍化」であり、「普遍化」とは「どんな個人的な内容のものを書いても、大勢の人々の心に共感させる」ことだと説明しています。

題材については何も恥じることはない。むしろ、恥ずべきは、独りよがりのエッセイですね。読み手の心に届くエッセイを書きたいものです。