実際に通う教室と通信講座との違い

エッセイ教室も、新型コロナ感染防止のため、当分の間お休みとなりました。カルチャースクールによって対応は違いますが、ある教室では、3月分の作品に関しては添削をもって教室の代替としました。いつもは、講師からだけでなく教室の他の仲間からも意見や感想を述べてもらう合評形式を取り入れていますので、添削だけでは少々物足りなかったかもしれません。それとも、新鮮に受け止めてもらえたでしょうか。

通信教室では基本的には講師による添削でカリキュラムが進んでいきます。私も以前、通信の添削講師として、月に20~30編を添削していました。書き手がどんな方かはわかりません。ご本人の姿も顔も経歴もわかりません。その分、余計な情報に左右されることなく、作品に書かれている内容だけに集中することができます。そして、その作品がさらに読みやすくわかりやすくなる方法を考え、添削という形で伝えます。

けれども、正直に言うと、書き手とじかに会って話したいと思うこともありました。筆者の真意や、実際の状況などを聞けば、もっと適切なアドバイスを伝えることができるのではないかという、もどかしい思いがありました。また、添削を受け取った方も、自分はこういうつもりで書いたと反論したい箇所があったのではないでしょうか。

通信添削と実際の教室との違いはそこにあります。教室では、書き手の顔を見ながら、質問や意見のやりとりができます。そこから作品の背景を深く知り、作品に沿った直し方の道筋が見えてくるのです。

エピソードがちらばっていて、焦点が絞り切れていない作品(書き手自身が、どう書こうか迷っている可能性がある)
通信添削では、「いろいろな話が出てくるので、なるべく焦点を絞りましょう」と伝えます。
教室においては、「その時、どう考えていたのか?」「どうしてそう思ったのか?」「相手の反応はどうだったか?」などと、様々な方向から書き手に質問をします。書き手はそれらの質問の答えを探るうちに、自分の心のあちこちが掘り起こされ、それによって整理され、「どう書きたいか」が徐々にはっきりした形になっていきます。これらのやりとりが、書き手の真の思いを見つける手助けになります。

最後に「いかにもまとめました」と感じられる数行が書かれている作品
通信添削では、「余韻を残すために、まとめの文章はなるべく削りましょう」と伝えます。
教室でそのようにアドバイスすると、書き手が「実は、そのまとめの部分を一番書きたかったのです」と打ち明けることがあります。その気持ちは尊重したい。とはいえ「いかにもまとめ」にならないよう、表現を変えたり、短めにしたり、別の場所に書き込んだりと、一緒に解決策を考えます。それでも、作品からその「まとめ」が読み取れ、あえて「まとめ」として書く必要がない場合は、「やはり削りましょう」と提案することもあります。

不確定な要素が多いのに、あえてそれを題材にした作品(女友達のご主人についての作品。しかもそのご主人は何年も前に亡くなっていて、会ったことはない。友達から聞いた話だけが元なので、不確定な箇所が多い)
通信添削なら、「よく知っている身近な人を題材にしたほうが、書きやすいでしょう」と伝えます。
教室で、「なぜ、よく知らない人のことを書こうと思ったのですか?」と聞いてみました。自分や身近な人たちについて書くと、よく知っているがゆえに、どうしてもプライバシーに触れてしまうため、書けなかった、という答えでした。書き手にとってこれが2作目のエッセイです。書いていくうちに、プライバシーに触れない書き方も見えてくるはずです。 その気持ちは、じかに聞かなければ、気づくことはなかったでしょう。

教室では、このように、実際に面と向かって話をするなかから、書き手の思いや工夫が姿を現します。通信添削の良さ、実際に通う教室の良さ、それぞれです。近いうちにエッセイのオンライン教室も開かれるかもしれませんね。