信頼があればこそ

エッセイ教室の作品の合評では、
・ここがわかりにくい
・この場面から書き始めたらどうでしょう
・最後の3行は必要ですか?
などの意見が出ます。
それらの意見は、基本的には「書き方」についてです。

・なぜ、そんなことを言ってしまったのですか?
・そういう態度はとるべきではないと思います。
など、エッセイに書かれている内容に対しての意見は言いません。書き手の生き方や人生に対する批評もしません。それは、作品の批評ではなく、書き手への批判になってしまうからです。教室の参加者も、そこはきちんと理解していて、踏み込んではいけない領域には立ち入りません。講師ももちろん同じです。

ある合評でのこと。Aさんの作品の中に、
「仕事で毎日忙しく、子どもに愛情を込めた料理を作ってやることはできなかった。私自身、母親が忙しかったので、小学校の頃から家族のために夕飯の用意をしていた。母親が作った食事を食べたことがなかった」
というような内容が書かれていました。
自分自身が母親の愛情こもった手作りに飢えていたから、子どもにはぜひ与えてやりたかったのに、できなかった寂しさが綴られていました。

私は、「やはり、小さな子供にとって、母親の手料理は愛情そのものなのかもしれませんね。その思いが胸に迫ってきました」と感想を述べました。エッセイの内容を受けての感想です。

Bさんはこう述べました。
「母親の愛情は、手作りだけではありませんよ。食事を作らなかったから、愛情持って育てられなかったと思い込む必要はないと思いますよ」

AさんはBさんの感想に対して、
「でも自分が子どもの頃、母親の手作りを食べたかった。だから子供にもしてやりたかったの。それが母親の愛情と思っていたから」
と、自分の気持ちをきちんと述べました。

実は、私はBさんの感想が、少し踏み込みすぎではないかな?と心配していました。Bさんの言う「そういうことに縛られることありませんよ」というアドバイスは、Aさんの持つ価値観を否定していないかなと案じたのでした。

けれども、AさんとBさんを見ていると、そういう心配はなさそうでした。互いのエッセイを読み合うことによって、人間の生き方に近いことまで話せる信頼関係が出来上がっているようでした。こういう考え方もありますよと、ストレートに伝えることができる。互いを批判するつもりなどもちろんないから、素直に受け入れられる。
何年かかけて、そういう関係性を築いてきたのだと、気づきました。

互いの信頼があればこそ、そこまで踏み込めた。そういうことですね。