ちょっとそこまで旅してみよう

『ちょっとそこまで旅してみよう』(益田ミリ著 幻冬舎文庫 平成29年4月15日発行)を紹介します。

旅のエッセイを書くのはむずかしい。そう思い込んでいたと、前回の『いつも旅のなか』を紹介したときに書きました。そして、私自身が書くエッセイの題材に、旅はほとんど登場しませんでした。登場させることができなかったのです。

けれども、旅行をしたら、そのことを書いておきたいのも本音。時々は試してみます。旅でおもしろいことがあれば、その一場面は書けますが、旅全体を書くと、家を出てから帰るまでのいわゆる「作文」になってしまいそうで、手をつけるのがためらわれました。

そんなときに、この本を本屋で見つけました。タイトルに引かれて手に取ると、前書きは「昨日まで知らなかった世界を、今日のわたしは知っている」という文で始まっていました。なんとなく共感を覚え、さらにページをめくると、目次は、行った先の地名、たとえば、「1石川 金沢」「2秋田 五能線」とシンプル。薄い文庫本で、ちょっと読んでみようかなと購入しました。

本書には、19プラスおまけで、20の旅が登場します。タイトルには行先のほか、旅の時期、そして誰と行ったか(イラスト付き、著者はイラストレーターでもありました)が載っています。基本的な情報がまず提供され、本文に入ると、そこに旅行した理由が簡潔に書かれていて、その旅の大枠を知ることができます。それらは、文章で書くと意外と行数を必要とする情報で、その意味では、書き手にとってもストレスなく旅エッセイに入っていくことができる書き方と言えます。

あまり気負わずに書かれているのが、私には新鮮だったのかもしれません。
〇おいしいものを食べたとき、「おいしい」とか「めちゃくちゃおいしい」と書かれていました。ふだん、エッセイ教室では、「おいしいことを『おいしい』という言葉を使わずに表現したいものだ」という合評を受けますが、おいしければ「おいしい」でもいいのですね。
〇外国でおいしいお菓子を食べた。それは現地のスーパーでも売っているメジャーなお菓子で、また食べたいけれど、「お菓子の名前はわからない」。
私なら、エッセイに書くためには名前がわからないではすまされないと、日本に帰ってからもインターネットを駆使して名前を調べようと努力するでしょうが、「わからない」ものは「わからない」でもいいのですね。

「おいしい」や「わからない」と書いてあっても、読み手として何の問題もありませんでした。旅のエッセイは肩の力を抜いて書いていいのだと、気持ちが楽になりました。

どの旅も、行きから帰りまでわりと満遍なく書かれていますが、飽きることなく、旅のようすをイメージしながら楽しく読めます。この本の楽しさは、旅先で感じたことが、旅の内容にとどまらず筆者の生活や人生にまで広がり、筆者ならではのユニークな感性も加わって、素直にさらりと書き込まれているところです。たとえば。
〇旅の同行者としてしばしば登場する母親について。
「1年に会う日は15日ほど。わたしは母と、あと何日会えるんだろうか」
「わたしは、おそらく子供を持たない人生である。……遠い未来、子供とふたりで旅行することもない……母と旅することによって、『親』の疑似体験を楽しめている」
母への思いが、読者の負担にならない程度に、でもしっかり書き込まれている。
〇桜満開の公園で屋台の匂いに誘われ列に並んだ描写のなかで。
「こういうとき、並べるか並べないか。それが似ている同士だと旅もうまくいく気がする」
なんとなく感じていたことを、こうして言葉で表現してもらうと、実に納得。
〇外国の街を歩いているとき。
「異国の地にポツンといる自分が不思議に思えた。……母におつかいを頼まれ、近所のパン屋に行っている幼い自分になっていた」
外国を歩くときのそうした気持ちは一瞬心をよぎるだけかもしれないのに、きちんと掬い取って書き込んでいる。

さらに、これらの気持ちを書き込む箇所と書き込まない部分とのバランスがいいのです。 満遍なく書かれているようでも、強弱がついていて、読み手を飽きさせません。

私が旅のエッセイに大切と思っていた「人間模様」に関しては、同行者との会話や現地の人とのやりとりが、もちろん生き生きと書かれていて、旅エッセイには不可欠な要素でした。しかし、自分がどう感じたかをバランスよく書き入れていくことも同様に大切なのだと実感しました。この「バランスよく」は筆者の天性によるものかもしれませんが、こんなふうに肩の力を抜いて旅エッセイを書いてみたい(そう読者に思わせるのには、筆者の陰なる努力があるのでしょうが)。この本は私の背中を押してくれました。