悪口は書きたくない
先日のエッセイ教室でのことです。
Aさんが「今回は書くのがむずかしかった」と言うのです。
そのエッセイは、今は亡きお母さんが東京の自分の家で同居していた頃の話です。四国出身のAさんは、お母さんもふるさとの味が恋しいだろうと、讃岐うどん専門店に連れて行きましたが、東京で食べる讃岐うどんは食べ慣れていた味とはまったく違いました。がっかりしたお母さんは「東京のうどんはまずい」と言ったそうです。
この言葉をそのままエッセイに書いたら、他のうどんの悪口を書くことになってしまう。自分が讃岐うどんを好きなように、他の人にもそれぞれ好きなうどんがあるだろうから、他のうどんをけなすような書き方はしたくなかった。ではどう書いたら母親の気持ちが伝わるのか。
そこがむずかしかったというわけです。
Aさんはどのように解決したのでしょうか。
お母さんは東京のうどんに対して、「まずい」に加えて「うどんが死んどる」と言ったそうです。エッセイではその言葉を使ってお母さんの落胆ぶりを表しました。お母さんの気持ちが「うどんが死んどる」だけで伝わるかどうか、Aさんはそれも心配していましたが、このユニークなセリフはお母さんの気持ちをストレートに代弁していて、お母さんの気持ちが伝わってきました。
他のうどんをけなすような言い方をしたくないというAさんの気持ちは、よくわかります。しかし、「まずい」という言葉を絶対に使ってはいけない、ということでもないと思います。書き方次第ではなんとかなりそうです。
たとえば、
「東京のうどんはまずいね」
母はうどんを食べた後、必ずそう言う。母にとっては「うどん」といえば子どものころから食べつけているあの味。東京でどんなにおいしいうどんを食べたとしても、母にとっては「まずい」としか感じられないのだろう。
というように、母親の「まずい」をAさんが説明することによって、悪口ではなくなると思います。
Aさんが書きたかったのは、「故郷のうどんを懐かしむ母親の気持ち」であり、その根本のところにブレがなければ、読み手は悪口とは受け取らないのではないでしょうか。
また、教室ではこういう意見が出ました。
「自分では悪口と思っていても、読み手はそうは感じないかもしれない。あえて悪口を書いてみて、教室のみんなに感じ方を聞くという方法もあると思いますよ」
たしかに、そうです。毎月の合評の場、読む力のある仲間がいる場を利用しない手はありません。悩んだときは信頼できる仲間にゆだねる。教室でエッセイを書くメリットの1つですね。