エッセイは自慢話?
エッセイ教室に新しく2名が仲間入りしました。
エッセイで取り上げる題材は、大きな出来事である必要はなく、身の回りのきらりと光る小さな事柄も素敵な作品になることを伝えようと思いました。ちょうど、そのようなお手本となるエッセイを、友人のエッセイストの本の中に見つけたので、新人2人に読んでもらいました。
内容は、外出先の筆者が、家にいる大学生の息子に電話して、雨が降ってきたから洗濯物を取り込んでほしいと頼んだところ、すでに取り込みきれいに畳んでおいてくれたというものです。筆者は息子の成長とさりげない思いやりを感じ、その嬉しい瞬間を文章に閉じ込めました。母親の愛情が甘すぎない抑えた筆致でさらりと書かれた作品です。
ところが、新人2人は、作品の書き出しの部分が気になりました。こういう書き出しから始まっています。
ある受講生の一人に聞かれた。「エッセイって究極の自慢話だって井上ひさしさんが言ってました。そう思いますか?」。
作品の最後は、冒頭に呼応するように、嬉しい瞬間を「自慢話と受け取られても、ま、いいか」と結んでいます。
新人2人から質問が出ました。
「エッセイって、やっぱり自慢話なんですか?」
たとえばパリに住んでいたと書いたら、たとえば都心の家のほかに地方にも家があると書いたら、自慢話になるでしょうか、マウントを取ってるみたいでしょうかと、心配しています。
井上氏の発言の意図はわかりませんが、私はその場では、
「それは、書き方次第だと思います。書きたい思いや感動があるのであれば、パリであろうと、家が2軒あろうと、筆者の思いが伝わると思います。自慢話と受け取られることはないでしょう」
と答えました。
後日、井上氏の言葉について調べたところ、どういう場面で自慢話と定義したかは判明しませんでしたが、以下の文章が見つかりました。
「エッセイの正体とは、自慢話をひけらかすことだと定義したことがあります。ただし、自慢たらたら書いてしまうと、その臭味に読者はたちまち鼻白んでしまう。そこで、どう臭味を抜くか、自慢話であることをどう隠すかが勝負の要(かなめ)、ただその一点に、エッセイの巧さ下手さが現われます」(『井上ひさし全選評』 井上ひさし著 白水社 2010年3月)
講談社エッセイ賞の審査員だった井上氏が、第20回(2004年)の受賞作に対して述べた選評です。受賞者を見るとプロばかりですから、特別に厳しい言葉なのかもしれません。
私は「エッセイは自慢話」とは考えませんが、エッセイを書く人は自分の思いを心の中に留めておくことはできず、誰かに伝えたい、この文章を誰かに読んでほしいと願う気持ちがあると感じています。
自慢話であろうがなかろうが、大切なことは、書かずにはいられなかったその思いや感情が作品から伝わってくるかどうか、ではないでしょうか。