世界の現実を考えたら、何も書けない?
2024年に入ってからのエッセイ教室でのことです。ある作品に対して、さまざまな意見が出ました。
その作品には、まず、寒がりの筆者が冬をどう過ごすか、食べ物や衣服について気をつけていることが細かく書かれていました。 そして、そのエッセイを書いている途中で能登半島地震が起き、自然の大災害を前にして、書いてきたことがすべて馬鹿らしく思えたと続き、 最後は被災地への見舞いと思いで締められていました。
教室の合評では次のような意見が出ました。
・現実に目を向ければ、戦争が起こっていて、身を寄せ合っている避難民もいて、それなのに、エッセイにちっぽけなことを一生懸命書いている自分ってどうなんだろうと思ってしまう。
・世界の現実を考えてしまったら、身辺雑記のようなエッセイは書けなくなる。
・地震を書かずにいられなかった気持ちは理解できるが、小さな話題と震災を同じ土俵に載せて書くのはしっくりこない。
これらの意見には、2つの問題が存在していると感じました。
1 「小さい題材」は、現実の「大きな題材」に比べて書く意義が低いのではないか
2 「大きな題材」と「小さな題材」を同じ作品の中で扱うことへの疑問
1「小さい題材」は、現実の「大きな題材」に比べて書く意義が低いのではないか
エッセイには身の回りの小さな出来事がよく登場します。はたして、この「小さな題材」は世界の現実と比べて「書くに値しない」ものなのでしょうか。この問いについては、作家村田喜代子さんがその著『名文を書かない文章講座』(葦書房2000年9月)でわかりやすく語っているので、引用させていただきます。
「書くに値するものとは、読むに値するもののことである。そして読むに値するものとは、いつまでも心に残るものであり、それは次のようなものではないだろうか。
一、誰もが心に思っている事柄を、再認識させ共感させる。
二、誰もが知りながら心で見過ごしている事柄を、あらためて再認識し実感させる。
三、人に知られていない事柄を書き表して、そこに意味を発見し光を当てる。」
どんな題材であっても、視点や書き方によって、読み応えのある作品になるということです。世界の現実はそれとして、小さな題材にもエッセイとしての存在意義はあると、自信を持って取り組みたいものです。
2「大きな題材」と「小さな題材」を同じ作品の中で扱うことへの疑問
今回の作品では筆者は「自然の災害を目の当たりにし、自分が綴っていたことのなんとちっぽけで取るに足らないことであったか、またそういう日常がいかに幸せであるかに気づいた」という「気づき」を書きたかったようです。一つの作品の中に、両方の題材が入っていること自体に問題はないと思いますが、筆者の気持ちが読み手にうまく伝わらなかったため、読み手側に疑問を感じさせたようです。作品後半に、被災者へのお見舞いの文章が続いたので、筆者が書きたいことがぼやけたのかもしれません。
「気づき」を感じたところでスパッと終える書き方を提案しました。
合評で出てくる意見を聞き、皆いろいろ考えながらエッセイを書いていると、改めて気づかされました。それは私にとって大変うれしい気づきでした。