夜中の物音

 年上のエッセイ仲間や本好きの人と話すと、寺田寅彦という名前が時々登場する。物理学者にして、夏目漱石の門下。随筆家としても名を成した人物だ。
 私も教養として氏の随筆を読んでおこうかと思い、手始めに岩波文庫の『寺田寅彦随筆集第一巻』を買ってみた。22編の随筆が収められている。パラパラと眺めると、文字が細かい。段落が少ない。漢字は多い。硬い言い回しも多そうだ。 最初に収載されている「どんぐり」はなんとか読み終えたが、なかなかページが進まない。
 他に読みやすい話はないかとめくって、「病院の夜明けの物音」にたどりついた。あまりに静かな病院の夜。夜中に目が覚めると聞こえてくるものの話から始まる。
「枕に押しつけた耳に響く律動的なザックザックとモノをきざむような脈管の血液の音が、注意すればするほど異常に大きく強く響いてくる」
 そのくだりを読み、私の記憶は半世紀前にキュルキュルと巻き戻された。そうだったのか。あれは自分の血が流れる音だったのか。
 小学2、3年のころか。夜中に、ザッザッとなにか恐ろしいモノが近づいてくる音で目が覚めることがあった。それが聞こえてくると、もう眠れない。怖くて怖くて、目をギューッと閉じて、布団を頭からかぶる。しかし、音はさらにザッザッザッと大きくなって近づいてくる。
 ひとりでは居ても立っても居られず、母の布団に潜り込む。温かい母親にくっつくと、いつの間にか音は消え、ふと気づくと朝を迎えているのだった。母には、
「怖いとか言ってやって来ても、布団に入るとすぐに寝ちゃうんだから」
と、毎回笑われた。そして、いつの間にか、その音に悩まされることはなくなった。
 寺田氏がこの現象を科学者としての知識で語ってくれたおかげで、忘れていた昔の出来事ではあるが、胸のつかえが取れた気分だった。
 これにすっかり満足した私は、この作品すら最後まで読み終えずに本を閉じてしまった。