知性を磨く文章の書き方

『知性を磨く文章の書き方』(木村治美著 PHP研究所 2000年1月10日発行)をご紹介します。

「エッセイって何だろう」
こういう疑問をもったことはありませんか?
おそらく、この疑問を最初にもつのは、初めて書く時でしょう。エッセイというものなら書けそうな気がして、エッセイ教室に入ってみようと思うけれど、そもそもエッセイって何だろう。辞書を引いても、わかるようなわからないような……。まず、講師にこの質問をしたいと思うのではないでしょうか。
次に疑問をもつのは、何編か書いてみて、だんだんエッセイらしきものが書けるようになった時ではないでしょうか。はたして、自分が書いたものはエッセイを呼べるものなのか、エッセイに値するものなのかと心配になって、「エッセイとは何だろう」という疑問をもつ。そんな経験はありませんか?
エッセイ教室で時間に余裕があるときは、書き始めて1年ほどたった方に、今回ご紹介する本の「エッセイのいろはを学ぶ」という章をお見せすることがあります。
この章の始まりを引用しましょう。

「こんな作文をエッセイと呼んでよいのだろうか」
書き始めてしばらくたつと、このような疑問が生まれるらしい。エッセイとはもっと高尚なもので、日々の生活記録などは、仲間にいれてもらえないのではないか、と。つまりエッセイとはなにか、というあらためての問いかけだ。(44ページより)

この章「エッセイのいろはを学ぶ」では、タイトルどおり、エッセイの書き方のいろはが解説されています。エッセイを初めて書くという時にこの章を読んだとしても、表面的な部分しか理解できないのではないかと思います。もちろん、その時点で参考書を読まないほうがいい、と言っているわけではありませんが。自分で試行錯誤して何編かのエッセイを書いた経験のあとに読むほうが、腑に落ちる箇所が多く、また理解度も高まり、そういうことだったのかと納得できるのではないでしょうか。

本章の内容について、4つの見出しに沿ってご紹介します。
「私」を中心に据える
エッセイは何をテーマにしてもよいし、書き方も自由だが、これだけはという必須要素を抽出するなら、「私」がそこにいるということでしょう。とはいえ、「私」をすべてさらけ出すということではありません。書くか書かないかの判断も必要と説きます。
テーマ選びから推敲まで
課題から内容を決めるところから始まり、どこに重点を置くか、構成、推敲、タイトル決めという、エッセイを書き上げるまでの流れを簡潔にたどります。途中に、「エッセイというのは書いてやっつければよいというものではない。……そこに感動がほしい。……大切なのは、書かないではいられなかったという切実さだ」というくだりがあります。心に留めておきたい箇所です。
構成を考える
短いエッセイでも、ゆきとどいた構成があったほうが効果的な場合があるとして、サンドイッチ型(現在―過去―現在という構成)の作品を例に説明します。一行あけの空白は、場面転換や時間の変化を表し、重要な意味をもつことを教わります。
大人のこころで書く
「エッセイとは」を外側から消去法で探ります。新聞記事とは違う、論文とは違う、詩、シナリオ、小説とも違います。作文との違いについては、作文は子供のこころで、エッセイは大人のこころで書かれていると分類します。大人のこころとは何なのかは、はっきり書かれていません。私は、「読み手を気遣い、プライバシーを考慮し、書くか書かないかを判断し、その分、純粋で素直な気持ちが減ってしまっているのが大人のこころ」と読み取りました。本書を読まれたら、ご自身でも考えてみてください。

この章だけでなく全編をとおして、エッセイを書く際に気をつけたいことがさまざまな視点から書かれています。たとえば、「合評を受けてから作品をどう手直しするか」「前書きやまとめは必要か」「登場人物の名前を頭文字にするか仮名にするか」など、エッセイを書いていたら必ずや気になることばかりです。
そして、すべてについて断定的なところがなく、どう受け止めるかは読み手に託されているところが本書の良さだと思います。とともに、「その作品の責任をもつのは、書いているあなたですよ」と言われているようで、背筋が伸びます。