「です・ます体」と「である体」
先日のエッセイ教室で、こういう質問を受けました。
「教室の他の方々は、『である体』で書いていらっしゃるので、私もそうしようと思って書いてみたのですが、なんだかうまくいかなくて、結局『です・ます体』で仕上げてしまいました。このまま『です・ます体』で書いていて、いいのでしょうか」
ご存じの方も多いと思いますが、まず、これらの文体の説明をしておきます。
〇「である体」は「常体」ともいい、文末に「である」「だ」などを用いる。
例:「その日のことである」「エッセイを書いた」
〇「です・ます体」は「敬体」ともいい、文末に「です」「ます」などを用いる。
例:「その日のことです」「エッセイを書きます」
質問者は、エッセイを書き始めてまだ間がない方で、最初の作品から「です・ます体」を使っています。「です・ます体」の少しゆったりしたテンポと内容がマッチしていて、「である体」に無理して変えることはないように感じていました。
けれども、質問したくなる気持ちもよくわかります。エッセイ教室でも本を読んでも、世の中で目にするエッセイは、ほとんどが「である体」で書かれています。「である体」で仕上げることができなくて、きっと悩んだことでしょう。
私はこう答えました。
「『です・ます体』のほうがしっくりくるのなら、しばらくそれで書いてみていいと思いますよ。『です・ます体』のリズムがご自身に合っているのでしょう。何編か書いてから、もう一度『である体』を試してみたらどうでしょう。内容によっては『である体』のほうが書きやすいこともあるので、いつかまたトライしてみてください」
質問をきっかけに、この2つ文体の特徴について改めて調べてみました。
私のエッセイの師 木村治美氏は、最初の著書『黄昏のロンドンから』を「です・ます体」で書きました。その原稿は、月刊誌から「ロンドン通信を書いてくれませんか」と言われて書いたものなので、読者に手紙を書き送るつもりで書いたため、こういう文体になったと、著書『エッセイを書きたいあなたに』(文藝春秋 1996年4月発行)に書いています。
しかし、文末が「…ました、ました、ました」となりがちで、変化をつけるのに工夫が必要であるとも述べています。
両者の使い分けについて、『人の心を動かす文章術』(樋口裕一著 草思社 2004年3月)には、このように書かれています。
「特定の人に呼びかけるときには敬体を用い、不特定の人物に対して公的に書くときには常体を用いるというのが原則だ。したがって、手紙などは敬体で書き、エッセイや小論文などは常体で書くのが一般的だ。ただし、もちろん、そのかぎりではない。
不特定多数を思い浮かべて書くエッセイなどでも、書こうとしている内容や醸し出す雰囲気などによって敬体を用いることもできる」
敬体を使うことによって、懐かしい雰囲気が醸し出され、読む側にとってはゆっくりしたペースになるそうです。
作家の村田喜代子氏は、原則として「です・ます調」は使わないと、『名文を書かない文章講座』(葦書房 2000年9月)で述べています。「です」「ます」を入れると文字数が余分に増えて、水増しをしたような薄い感じを与えることを、理由の一つに挙げています。「ただこれはあくまで作者の好みによる」ということも、きっちり書かれています。
私自身は、ほとんどのエッセイを「である体」で書きますが、このエッセイ工房に載せたエッセイのなかには1編だけ「です・ます体」の作品『単位は匁』があります。最後に注釈をつけて、「このエッセイは、ですます調(敬体)で書きました。古い料理本をだいじにする母の気持ちを表すのに、である調(常体)よりも合うように思いました」と書きました。「です・ます体」 が自分のエッセイにおいては例外ではあるが、この作品には使いたかったことを注釈で説明したのでした。
エッセイを書く際に、「である体」「です・ます体」のどちらを使うか。
それぞれの特徴を知ったうえで、自分に、もしくはその作品に合うほうを選ぶとよい、と言えそうです。とはいえ、世のエッセイの多くが「である体」という事実は、「である体」のほうが書きやすいことを示しているのかもしれません。