時代によってエッセイも変わる?
エッセイ教室で時間の余裕があるときは、エッセイに関する本を教材にして、生徒さんと一緒に読むことがあります。先日は、『文章術の千本ノック』(林 望著 小学館 2002年10月発行)を用いました。この本の後半には、林氏の生徒が書いた作品を林氏が実際に添削した例が載っていて、大変勉強になります。その中から1編を選んで、エッセイ教室で生徒さんと読みました。
そのとき取り上げた作品は「アブナイ経験」というテーマで書かれたものでした。内容は、
「夜の空いている電車で、一人で笑い続けている、怪しい女性がいた。よく見ると、その女性は中学時代の同級生だった。当時も奇行と思える行動をとり、急に高笑いをすることもあった。その女性が自分のことを思い出したら困る。気づかれないように、こっそりと電車を降りた」
というものでした。
笑い続ける女性の描写がうまく、「不気味」とか「怪しい」という言葉を使わず、描写でその女性の気味悪いようすを伝えていて、「アブナイ経験」というテーマにも合っている作品です。林氏は添削で改行の箇所などを指摘したあと、講評では「何でもない情景から書き始め、だんだんにエキセントリックな様相を呈してくる、ちょっとした短編小説のようだ」とほめていました。
ところが、教室の生徒さん(60代男性)の感想は違いました。
電車で笑っていた女性は、たまたま乗り合わせた人ではなく、中学の同級生だった。ということは、心の病か障がいを持っていることを筆者は知っていたのに、中学時代のようすを事細かに述べ、声を掛けられたくないからこっそり電車を降りたと書いている。その同級生の描き方が、心に引っかかる。読んだ後、いやな感じになる。
と言うのです。
私はそこまで考えが及ばなかったことを反省しました。言われてみれば、そのとおりです。
・その女性を知っているのに、それを「アブナイ経験」という括りで語るのはどうなのか。
・筆者がこのエッセイに書いたとおりに感じたのは事実であっても、そのまま書いていいのか。
・筆者に同級生に対する偏見がなかったとしても、違った書き方を考えるべきではないか。
・エッセイとして、つまり誰かが読む作品として発表してもいい内容なのか。
いろいろ考える必要があると感じました。
この本が、20年前の出版であることと関係があるかもしれません。20年前では、こういう症状や病気について社会全体の理解や認識が、まだ進んでいなかったように感じます。今、出版されるのなら、編集部のチェックが入る可能性もあるでしょう。
この一件で、最近読んだ2冊の本のことを思い出しました。
有吉佐和子さんの『非色』は1967年11月刊行された本ですが、私が手にしたのは2020年に再文庫化されたものです。「ニグロ」という、現在では使われない表現が数多く出てきました。
長谷川町子さんの『サザエさんうちあけ話』は、1979年3月に刊行された本が2016年に復刊されたもので、「ヤバンきわまる」という言葉の横に、色が黒く槍を持っている人物が描かれていました。
どちらの本にも巻末に但し書きがあり、現在から見れば社会通念上不適切な表現があるが、作者に差別的意図はなく、また当時の社会常識が作品の背景になっているため、訂正はしなかった旨、書かれていました。
最近は人々の多様性を認める社会を目指し、世の中で使用する言葉にたいへん気を遣っています。エッセイを書くときにも、時代の要請をきちんと理解しておきたいものです。気を遣いすぎる必要はありませんが、自分のエッセイが、知らず知らずに誰かを傷つけることのないようにしたいとも思います。
それは言葉選びに限らず、エッセイに書く題材やエピソード、そしてその書き方についても言えることだと、今回私も学びました。