「今」を書くと、コロナが必ず顔を出す
2020年秋から始まったテレビドラマに、まさに「今」を描いたものがありました。人前ではマスク着用、会社で検温し、ソーシャルディスタンスを守り、リモートワークも始まります。コロナ禍での日常を描くドラマを初めて見ました。
エッセイにおいては、「今」を描く場合には、必ずや新型コロナウイルス感染症が登場します。登場せざるをえません。これだけ、私たちの生活や気持ちに影響を及ぼしているのですから。
2020年7月に「今月の話題」に載せた「なまものを書く~新型コロナウイルスの場合~」において、現在進行中の時事的な話題「なまもの」の書き方について注意すべきポイントを書きました。
10月の今、人々はマスクをして手を洗って3密を避ければほぼ大丈夫と、withコロナの生活に徐々に慣れてきたように感じます。それと同じような変化がエッセイにも見られます。
緊急事態宣言が解除されてエッセイ教室が再開したころのエッセイには、筆者の試行錯誤が感じられました。新しい敵との距離感をうまく取れず、コロナをどう書いていいか、悩みつつ試しつつ書いている、そういうエッセイを何編か目にしました。
それから4、5カ月たち、最近のエッセイには、コロナが自然に入り込んでいます。コロナ禍の生活を受け入れ、その中で感じるストレスや苦痛を素直に口に出し、それと同時に、明るさや楽しさを生活の中に見つけようとする姿勢が見えます。本音も見え隠れします。
「みな自粛疲れで、気分を発散する必要があった。家族旅行を計画した」
「今回の帰省はわが家にとっては重要なことだ。不要不急の外出ではない。しかし、行くことをためらう自分がいた」
「コロナ禍で、やりたいこととやりたくないことがはっきりしてきた。コロナを理由にすれば、角を立てずに辞めることができる」
こういうエッセイを読んでいると、自然体でコロナのことを書けるほどに、withコロナが日常になったのだと感じます。
「なまもの」だからと、エッセイを書く時に特別に注意する必要はなさそうに見えます。けれども、何年かたってからそのエッセイを読むと、以下のような点が気になるはずです。
・「コロナ」と簡略化した呼び方を使っているが、作品の最初では、「新型コロナウイルス感染症」ときちんと書いたほうがいいのではないか。
・緊急事態宣言中の話を書く場合、それが何年何月のことか、宣言下はどういう状況だったのか、説明が必要になるのではないか。
・そのエッセイが、いつのことなのか(たとえば、感染拡大がどういう状況にあった時期か)を書くことにより、筆者の心情がより伝わるのではないか。
以上のことを、今現在、神経質になって書き込む必要はないでしょう。
今後、作品集などに収載する場合、すなわち時がたってから読まれる可能性がある場合は、説明や状況を補うことをお勧めします。それが「なまもの」との付き合い方と言えましょう。
コロナ禍での経験は、得難い貴重な体験ですし、記録という意味でも、ぜひ書き残しておきたいものです。些細なことは忘れてしまいがちですが、あとで読み返したときに、小さい出来事のほうが心に染みることもあります。短いエッセイも書いておく価値あり、ですよ。